「イルカ先生。今、お帰りですか?」
その日もカカシはイルカの帰りを待ち伏せ、偶然を装って話しかけた。
それなりに人通りのあるアカデミー出口で待ち伏せているのだから、人の噂に上るのも当然の事だ。
「カカシ先生。どうされたんですか?こんな時間に、こんな所で」
「ちょっと調べ物があって、今まで資料室にいたんです。帰ろうとしていたら、アナタの姿が見えたので」
イルカの問いに、カカシは答えた。
問いも答えも、何十回も繰り返された同じ言葉だ。
「こんな時間まで、お疲れ様です」
「ところで、食事は済まされましたか?」
「あ…いえ…」
「でしたら、ご一緒にいかがですか?」
顔の露出した唯一の部分である右目に人懐こそうな笑みを浮かべ、カカシは言った。
イルカもつられたように笑顔を見せると、「喜んで」と答えた。

二人は繁華街にある定食屋に入り、カウンターに並んで腰を降ろした。
「俺はサンマ塩焼き定食とビール。イルカ先生は?」
「俺は__あ…ちょっと済みません」
言って、イルカはそそくさとカバンから手帳を取り出した。
ページを開き、何かを書き付ける。
「毎日の出来事を細かくメモするよう、医者に言われてるんです。でもメモを取らなければならない事自体を忘れてしまって…」
だから、と言って、イルカは左手をカカシに見せた。
手の甲に、「見聞きしたこと、思った事を細かくメモに残せ」と書いてある。

どくりと、心臓が鼓動するのをカカシは感じた。
今までイルカは、カカシから何度同じ告白を受けてもその場で忘れてしまっていた。
だがこれからは、それをメモに残すようになるのだろう。
そうなったら?
期待と不安に、カカシは緊張を覚えた。

「○月×日。カカシ先生と丸屋で夕飯。カレイの煮付け定食とお銚子一本を注文__まるで子供の日記みたいでしょう?」
照れくさそうに笑って、イルカは言った。
「部屋中にメモや行動予定表を張ってありますし、時計もこれに替えたんです」
イルカは腕時計をしていた。忍は懐中時計を使うのが普通で、腕時計をしている者は殆ど居ない。
だが今のイルカの状態では、時計を見ることも忘れてしまうのだろうと、カカシは思った。
「その一つ一つが、アナタにとって大切な事なんでしょうね」
「ええ。俺は一人暮らしですから、そういった物にでも頼らないと」
「…独りでは、不自由ではありませんか?」
僅かに躊躇ってから、カカシは訊いた。
そしてすぐに後悔した。イルカの顔に、傷ついた表情が過ぎったから。
「周囲が俺の症状を理解して協力してくれるので、とても助かっています。今は受付とアカデミーの雑用だけやってますけど、もっと慣れたら以前のように教えることも出来るんじゃないかって……」
カカシは口を開き、何も言わぬまま閉じた。
イルカは自立心が強く、教師という職業に誇りを抱いていた。
そのイルカが教壇に立てないのだから、内心、悔しい想いをしているに違いないのだ。それなのに自分は、追い討ちをかけるような言葉を吐いてしまった。

アナタの側にいさせて下さい。

言いたいのは、それだけだ。
だがそんな事を言えばイルカは、自分が一人では自立できないと看做されているのだと感じるだろう。
そしてきっと傷つく。
どうすればイルカを傷つけずに自分の気持ちを伝えられるのか、その答えは、カカシには判らなかった__ただ、「愛している」と告げる以外には。

「ところで、ナルトの奴、皆とうまくやれてますか?」
何十回も繰り返された問いに、カカシは笑顔で答えた。
「サスケに対して強いライバル意識を持っているようですが、それも良い刺激になるでしょう、お互いに取って」

何でナルトの事ばかり訊くんですか?

「カカシ先生もご存知でしょうが、ナルトは……」
「サスケやサクラは、一部の心無い者たちのような目でナルトを見たりしませんよ」.

たまには、俺の事を考えてくれても良いんじゃないですか?

「それを伺って安心しました。いえ、サスケやサクラの事は知っていますから、心配していたって訳でも無いんですが」

アナタが任務で重傷を負ったと聞かされた時、俺がどんな気持ちだったか判りますか?
意識不明で眠り続けるアナタを見ていた俺が、どんな気持ちだったか判りますか?
そうして漸く眠りから醒めた時、アナタは俺に言った。どうして、カカシ先生がここにいるんですか…と。
その時の俺がどんな気持ちだったが、アナタに判りますか?
あの時、俺は、文字通り打ちのめされた。
確かに俺たちは深い仲ではなかったけれど、単なる友人という以上の間柄ではあったと、俺は信じていたから。
それが、アナタの答えなんですか?
そう訊いた俺に、アナタは怪訝気な表情を見せただけだった。
それ以上、自分を惨めにしたくなくて、俺は黙って病室を出た。そしてそのまま、アナタの事は諦めようと思った。
それなのに。
アナタの記憶障害の事を聞いて、俺はまた決心がぐらついた。
そして、執拗に答えを求めるようになった。
ケガをする前のアナタが、俺に伝えようとしていた答えを。



「では、今日は色々と話を聞かせて頂いて、有難うございました」
食事の済んだ後、カカシはイルカをアパートまで送って行った。自分の家も同じ方向で、ついでだからと嘘をついたのだ。
「イルカ先生」
踵を返そうとしたイルカを、カカシは呼び止めた。
「アナタに聞いてほしい事があります」
「はい。何でしょう?」
「アナタが、好きです。恋愛の対象として、愛しています」
「……申し訳ありませんが」
イルカは暫く躊躇い、それから困惑気な微笑を浮かべて言った。
「あなたのお気持ちには応えられません」
「…何故?」
「俺にはもう、大切な人がいますから」
失礼します__言って、イルカは踵を返した。
少なくともカカシの見ている前では、メモは取らなかった。



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