無
「少し、休憩にしよう」
「……大丈夫ですか?」
ああ、と、短く答えたイタチの後姿を、鬼鮫は黙って見遣った。
出産から数ヶ月が経ち、だいぶ体調が回復したイタチの修行の相手を、鬼鮫は勤めている。
かつてのイタチの能力を思えば、自分などが相手では役不足ではないかと初め鬼鮫は思っていたが、全く術の使えない状態が1年近くも続いたイタチの体力の低下は予想以上で、今では逆にイタチに負担をかけさせないよう、気を遣っている。
イタチは木陰に腰を降ろし、髪紐を解いて髪を結いなおしていた。
艶やかな黒髪が波打つように広がり、それから器用にまとめられて白いうなじが露になる。
その姿に、鬼鮫は幽かに目を細めた。
「お前もここに座ったらどうだ?」
鬼鮫の方を見るでもなく、何気なさそうにイタチは言った。
実際、イタチは特に何も意識していないのだろう。
鬼鮫とはツーマンセルのパートナーとして8年も寝食を共にしていた。
その間には鬼鮫から手合わせを願い出たことも、共に修行した事もある。
宿では当然、同室だったし、一緒に温泉に浸かった事もある。
イタチに対して単なる仲間以上の感情を抱き始めた時から、イタチの側近くにいる事は鬼鮫にとって甘い苦痛となった。
あの頃、淡い期待を抱いていなかったと言えば嘘になる。
だがまさか、本当に恋人同士になれるとは思っていなかった。
そして今は、淡い期待すら抱く余地は無い。
イタチはサスケと共にある事、二人の間の子供を一緒に育てる事を決意したのだから。
「……どうかしたのか?」
離れた場所に佇んでいる鬼鮫を見遣り、幾分か怪訝そうにイタチは訊いた。
何でもありませんと言いかけて、鬼鮫は苦く笑った。
かつての恋人、今も求めて止まない最愛の人を眼の前にしながら、二度と触れる事は叶わないのだ。
何でもない筈が無い。
「…鬼鮫?」
イタチの表情は、怪訝そうなそれから、心配そうなそれに変わった。
「何かあったのか。誰かに……何か言われたか?」
「誰にも何も言われてませんよ」
でも、と、鬼鮫は続けた。
「言われても当然ですけどね。『何故お前は、まだここにいるのか』…と」
イタチの表情が曇るのを見て、鬼鮫は言った事を後悔した。
裏切った暁には無論、戻れないが、暁に誘われる前から抜け忍として一人で行動していた。
鬼鮫の実力は広く知れ渡っていて、裏稼業の口には事欠かない。
その手の仕事は好戦的な鬼鮫の性格に合っている上に、報酬も悪くない。
その一方で、大蛇丸の精神は完全に滅び、サスケはうまく周囲を欺いて音の里を治めている。
イタチは名目上は囚人だが『大蛇丸』から特別扱いされている事は大蛇丸の部下も熟知していて、賓客のように大切に傅かれている。
せめてイタチの体調が回復するまでは側にいてイタチを護ろうと思っていた鬼鮫だが、それは今はサスケの役目だ。
自分が留まり続ける理由が何も無い事を、鬼鮫は改めて思った。
「お前には……済まない事をしたと思っている」
目を伏せ、呟くようにイタチは言った。
長い睫が影を落とし、憂いを帯びた表情は喩えようも無く美しい。
「もしもここにいる事がお前にとって苦痛なら__」
「アナタは、どうなんですか?」
相手の言葉を遮って、鬼鮫は訊いた。
「私がここにいると、苦痛ですか?」
「そんな事は無い。俺は、お前に側にいて欲しいと思っている」
「……何故、ですか?」
たっぷり数十秒も躊躇ってから、鬼鮫は問うた。
イタチはまっすぐに、鬼鮫を見上げる。
「お前が…仲間だからだ」
予想通りの言葉に、だが幽かに胸が疼くのを、鬼鮫は覚えた。
期待などする余地は残されていないのだと判っていても、人という生き物は、期待するように出来ているらしい。
「単に暁でツーマンセルのパートナーだった事を言っているのでは無い。里を出てから、俺が本当に仲間だと思えたのはお前だけだ」
嫌、と、イタチは続けた。
「木の葉にいた頃も、心から仲間だと信頼できる相手などいなかった。皆、俺の才能を妬み、血筋に恵まれなかったと言って僻んでいた。暗部の部下ですら、自分よりずっと年下の俺に指図される事を嫌っていて…」
その頃の記憶が蘇り、イタチは思わず眉を顰めた。
一族の期待は過剰なまでに重く、同じ年にアカデミーを卒業した同期は皆、歳が離れていて相談相手もいない。
忍の師でもあり、実の兄のように慕っていたシスイに裏切られてからは誰も信じられなくなり、一族の中でも他の忍たちの間でも、孤立するばかりだった。
「何故…私を仲間だと認めて下さるんですか?」
数歩、側に歩み寄り、鬼鮫は訊いた。
「アナタの方が実力もずっと上で、何度も生命を助けられたのは私の方なのに」
「お前は俺を裏切らない」
躊躇いもなく、イタチは言いきった。
「お前は妬みも僻みもせず、年下の俺を尊重してくれた。俺の身体の事を知っても、厭わしがったり好奇の目で見たりしなかった。俺と深い仲になっても、態度を変えたりはしなかった」
それに、と、イタチは続けた。
「俺がサスケの子を孕んだ時でさえ、側にいて、力になってくれた」
その時の事が脳裏に蘇り、鬼鮫は視線を逸らせた。
一時は、イタチを殺そうと本気で思った。
だがイタチが自分を弄んでいたのでは無く、サスケとは木の葉にいた頃から恋仲だったと知って殺せなくなった。
あの時、イタチを殺していたなら、自分も死んでいたのだろうと鬼鮫は思った。
たとえ身体に血が通い、呼吸していても、心が死んでいたのでは死体と変わらない。
「……お前の気持ちが判っていながらここにいて欲しいと願うのは、身勝手で残酷だと判っている」
暫くの沈黙の後、イタチは言った。
「だからお前が望まないのならば…引き止める事は出来ない」
視線を落としたイタチを、鬼鮫は暫く黙ったまま見つめた。
それから、口を開く。
「アナタがそれを望むのならば、私はここにいます」
「鬼鮫……」
目を上げたイタチに、鬼鮫は幽かに笑って見せた。
「ご心配なく。ここに居座るのは、いつかまたアナタと恋仲になれるのではないかと、期待しているからではありません」
本心を言えば、期待していないと云うのは嘘になる。
だが此処に留まるのは、そんな幽かな望みに縋ってのことでは無い。
では何故だと問われたら、イタチの側にいたいからとしか、答えようが無いが。
「私も心から仲間だと思えた相手は、アナタしかいないんです。アナタは私を外見で判断せず、認め、信頼して下さった」
だから、と、鬼鮫は続けた。
「アナタの側に、いさせて下さい」
「……いてくれるのか」
イタチに触れたい衝動を抑え、鬼鮫は頷いた。
「アナタが私を必要とする限り、私がアナタを裏切る事はありません」
この生命の続く限り、無償の愛を捧げるのだと鬼鮫は心中で誓った。
余りに気恥ずかしくて、口には出せなかったが。
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