触れたい今日と見たくもなかった昨日




家を出てイタチと離れて暮らす事を、サスケは考えるようになった。
このままイタチの側にいて、その部下に嫉妬する自分に耐えられなくなったのだ。
だが自分が家を出ればあの部下の女は今よりも頻繁に家に出入りし、イタチとの仲を深めるのだろうと思うとそれも耐え難く、決心がつきかねていた。
そんな想いを抱くのは馬鹿げていると、何度も自分に言い聞かせた。
本来なら、長い潜入任務を完遂した兄が平穏な幸福を手にするのを、むしろ祝うべきだ。
何よりイタチ自身がそれを望んでいるのなら、弟としては応援すべきなのだろう。
そうは思っても、イタチがあの女と一緒にいる姿を想像すると、不快な気持ちになるのは防げない。
そしてそんな自分の気持ちに気づくことも無く、晴れやかに笑って女の話をするイタチを恨めしくすら感じる。

やはり、家を出るべきだ。

サスケが何度目かにそう決意した時、イタチが襖の外から声をかけた。
「…何?」
「ここにいたか。済まないが、爪を切ってくれないか?」
イタチは湯上りで、寝着にする浴衣を身に纏っていた。
「判った。そこに座って」
側によると、石鹸の匂いがする。
半乾きの黒髪からは、あの女が使っているのとは別のシャンプーの匂いがした。
まだ、オレのものだ__不意にそんな想いが脳裏を掠め、サスケは幾分か慌ててその想いを打ち消した。
誰に知られるという訳でも無いのに、ひどく後ろめたい。
引き出しから爪切りを取り出して兄の側に戻ると、サスケは余計な事は考えまいと、軽く首を振った。

イタチの手を取り、右手の小指から順に爪を切ってゆく。
イタチの指はしなやかで、とても器用そうだ。
暁との最後の戦いの時に見た、見事なまでの印の組み方をサスケは思い出した。
その動きは写輪眼を発動していても時に追いきれないほどに速く、流れるようだった。
印だけでなく、戦う時のイタチの動きには無駄が無く滑らかで、あの極限状態の最中にあっても優美にさえ見えた。

「…兄さんの印、時々、眼で追いきれなかった。オレは写輪眼を発動していたのに」
サスケの言葉に、イタチはただ軽く笑った。
形の良い口元に微笑が浮かびそして消えるのを、サスケは間近に見つめた。
手が止まってしまっているのに気づき、幾分か慌てて再び爪を切り始める。
戦う姿だけでなく、普段の立ち居振る舞いもイタチは優雅だと、サスケは思った。
無造作に髪をかき上げる仕草も、無心にクナイを研ぐ姿も、見えぬ的に正確に手裏剣を投げる姿も、まるで計算しつくされたかのように精密でありながら自然で、流れるように滑らかでそしてたおやかだ。
匂い立つような艶を感じるのはそのせいなのだろう。

「…足の爪も切ろうか?」
両手の爪を切り終わると、サスケは訊いた。
「そうだな。頼む」
その短い会話の間も、サスケは瞬きもせずにイタチを見つめた。
大きな目。くっきりとした二重瞼。長い睫。
夜闇を思わせる瞳。肌理こまかな肌。しなやかな黒髪。

------あんたに、触れたい……

内心の囁きをすぐに押し殺し、サスケは再び兄の爪を切り始めた。
足の爪を切らせる為に脚を組みなおしたせいで、浴衣の裾が乱れて腿の一部が露になっているのに気づき、サスケはすぐに眼を逸らせた。
心臓の鼓動が高まる。
他の事を考えて気を紛らわせようとしたが、意識がイタチから離れない。
暁にいた頃に、イタチが爪を深い紫に染めていた事を思い出す。
あの頃には何とも思わなかった筈なのに、今、思い出すと酷く扇情的だ。

「終わったよ。後は……」
「ああ、有難う。後は自分でやる」
切った爪を棄てるために立ち上がろうとして、サスケはそのままその場に留まった。
イタチの側にいるのは苦しいのに、離れたくないのだ。
こんな気持ちが続いたら、どうにかなってしまいそうだ。
「…サスケ?」
黙り込んだ弟の名を、イタチは呼んだ。
「どうかしたのか?」
「どうかって…何が?」
内心を見透かしたかのようなイタチの言葉に、どくりと心臓が脈打つのを感じながら、敢えて平然と、サスケは訊き返した。
「何か、悩んでいる事があるんじゃないのか?」
「どうして……そんな事を?」

イタチはまるで表情を見ようとでもするかのように、サスケに視線を向けた。
サスケは殆ど反射的に眼を逸らし、それから視線を戻した。
イタチの瞳には、何も映りはしないのだ。

「このところ何だか塞ぎこんでいるように思える。俺と余り口もきかないしな」
「そんな事は……」
曖昧に否定したサスケの頬に、イタチは触れた。
「言いたくないのなら無理には訊かない。だが、俺たちは唯一無二の兄弟だ」
「判ってる…」

言える筈がない、と、サスケは思った。
その唯一無二の兄弟に、恋心を抱いているなど。
兄に近づいて来た女に嫉妬し、眠れぬ夜を過ごしているなどと。

「任務の為とは言え、この8年の間、お前には辛い想いをさせてきた。だから今は、俺に出来るだけの事はしてやりたい」
サスケの癖毛に指を絡め、幼い子供を宥めるように愛撫しながら、イタチは言った。
まるで見つめ合っているかのように視線が絡み、心臓の鼓動が一層、激しくなるのをサスケは覚えた。
「俺に遠慮する必要は無い。お前が何に悩んでいるのか、聞かせてくれないか?」
「別に悩んでなんかいない。ただ……」
イタチに触れられている頬が熱くなってゆくのを感じながら、サスケは言った。
「ただ、オレがこの家にいない方が、兄さんには良いんじゃないかって…」
「どうしてそんな事を?」

幽かに眉を顰め、心外そうに訊いたイタチに、サスケは罪悪感を覚えた。
だがそれでも、サスケは続けた。

「あの部下の女の人。オレがいない方が、家に連れて来やすいんじゃないのか?」
「前にも言ったが、彼女とは別に深い仲という訳では無い」
「でもあの人は兄さんが好きなんだ。兄さんにその気が無いんだったら、思わせぶりな態度は止めた方が良いんじゃないか?」
イタチが手を離し、サスケは思わずその手を取りそうになりながら、何とか思いとどまった。
「…そんな積りで家に呼んだんじゃない。俺はただ、お前の中忍昇格を祝いたかったから……」
「オレは判ってる。でもあの人は、そうは思ってないかも知れない」

イタチは口を噤み、僅かに眼を伏せた。
長い睫が陰を落とし、物憂げな表情に心が痛むのと同時にかき立てられるのを、サスケは覚えた。

「少し…軽率だったかも知れないな」
「勿論、兄さんもあの人の事が好きなんだったら__」
「前も言った通りだ。昔馴染みなので懐かしくはあったが、それ以上の感情は、無い」
口元が綻ぶのを、サスケは止めることが出来なかった。
「昔馴染みでも、今は暗部の部隊長と部下なのだから、立場を弁えるべきだった。お前にも余計な気を遣わせてしまったな」
「良いんだ、オレは」
ただ、あんたがオレの側にいてくれさえすれば__その言葉を、サスケは心中で繰り返した。
祈りのように、呪いの様に、何度も何度も。






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