寝返りを打ち、シーツに顔を埋めるようにして、オラクルは深く息を吸った。
仄かな白檀の薫と、それよりもっと幽かに煙草の匂い。煙草の匂いは或いは錯覚かも知れない。オラトリオは昨夜__と言うよりオラクルといる時はいつも__煙草は殆ど吸わないから。
タバコ臭い
初めてのキスの後、そう言ったオラクルの言葉に、オラトリオは結構、ショックを受けたらしかった。それから急に気を使うようになったから。
オラクルの口元に、幽かな笑みが浮かぶ。実際のところ、オラクルはそれ程、煙草の匂いが嫌いな訳では無かった。ただ、いきなり抱きしめられ間近に見つめられ、冷静さを失っていた。何年も密かに想い続けていた相手から思いがけない言葉を聞かされて、嬉しいよりも信じられない気持ちだった。
お前が好きだ
オラクルはシーツの上の、オラトリオが横たわっていた辺りに指を這わせた。
好きなんだ、オラクル…
もう一度、深く息を吸う。オラトリオの匂いに包まれていると、何年も前の言葉まではっきりと思い出せる気になれる。真剣な眼差しや力強い腕までも。
オラクルは、時計に視線を向けた。オラトリオは薬を買いに行っている。確かに頭痛に悩まされてはいるが、起きられないのは別の理由のせいなので、薬が効くとも思えない。何よりオラトリオに側にいて欲しかったが、強いては止めなかった。
大家族でいつも姉弟の世話を焼いているせいか、オラトリオはとても面倒見が良い。誰に対してもという訳では無いが。
誰ニ対シテモト言ウ訳デハ
不意に重苦しい想いに囚われ、オラクルは身じろいだ。
例えば、オラトリオが家族の面倒見が良い事__それはまだ許せる
例えば、オラトリオが彼の文章が好きだという女性編集者に愛想良くする事__そういう姿は見たくない
例えば__
数え上げればきりが無い。オラトリオを信じてはいる。それでも、嫉妬の種は尽きない。
もう一度、オラクルは寝返りを打った。溜息が漏れる。
まだ後、9回残ってるぜ?
不意に、前夜のオラトリオの言葉が蘇った。酔っていたし、意識も余りはっきりしていなかったというのに、何故かそんな言葉が鮮やかに思い出される。
オラトリオの声
熱い身体
荒い息づかい
優しい唇と、意地悪な指…
一度、思い出すと、止められなくなった。頬に血が昇り、身体が火照る。誰が見ているという訳でも無いのに慌てて布団を引っ張り上げ、顔を半ば隠した。
それでも、身体の奥の熱は引かない。
「…何処まで行ったんだ、あいつ」
ぼやいた時、玄関のドアが開く音がした。
「薬のほかに食料も買って来たぜ。昨日、冷蔵庫の中、見たら殆ど空だったからな」
部屋のドアを開けるなり、オラトリオは言った。屋外(そと)の冷気に混じって、タバコの匂いがする。
「大丈夫か?ほら、水」
オラクルの背を支えてを抱き起こし、グラスと薬を渡しながらオラトリオは言った。真っ白な背中に、眼を奪われる。その背中に何度も口づけを繰り返した記憶が蘇る。しなやかな感触と、オラクルの甘い声も。
雪の様に白い首筋に自分のつけた跡が残っているのを見て、オラトリオはぞくりとするものを感じた。肩や背中の、オラクルに爪を立てられた場所が甘く疼く。
オラクルの声
熱い素肌
甘い吐息
しなやかな膚と、たおやかな腕と…
鮮明に蘇った記憶に、オラトリオは身体が熱くなるのを覚えた。
「…午後から打ち合わせなのに」
グラスをベッド脇のチェストの上に置いて、オラクルはぼやいた。
「クライアントとか?」
「クォータと」
その名を聞いた途端、自分が不機嫌になるのをオラトリオは覚えた。
「無駄な打ち合わせをしたがる奴だ。どうせまた、メールで済むような話だろ」
思わず、口調がとげとげしくなる。
オラクルは誤解だと言う。が、オラトリオに言わせればオラクルが鈍いだけだ。異性から寄せられる好意にも鈍感だ。オラトリオが女性と親しげに話などしていれば機嫌を損ねる癖に、自分のする事には無頓着だ。
その鈍感さのせいで、想いを告げるまでにひどく遠回りさせられた。やっとの事で初めてのキスにまで漕ぎ着ければタバコ臭いと文句を言われ…
「…相変わらずクォータが嫌いなんだな、お前は」
「自分の恋人に色目、使う野郎を嫌わずにいられるか」
くすりと、オラクルは微笑った。軽くいなされた様に、オラトリオは感じた。それでも、気持ちは却って昂ぶる。
「クォータとの打ち合わせなんぞ、キャンセルしろよ」
オラクルの髪に指を絡め、囁くようにオラトリオは言った。強引にすれば酷く機嫌を損ねてしまうのが判っているから。
そのくせ、昨夜はオラトリオの言いなりだった。酔いは言い訳に過ぎないのだろう。あれだけ飲めば自分がどうなるか判っている筈なのに、オラトリオの勧めを拒みはしなかったから。
「いつも言ってるけど、クォータは私に優しい訳じゃ無くて、お前に厳しいだけだよ。お前がいつもぎりぎりにしか原稿を__」
口づけで、オラトリオはオラクルを黙らせた。他の男の名など聞きたく無かった。僅かに掠れた声で、自分の名を呼んで欲しい。うわ言のように何度も何度も__昨夜の様に。
形ばかりの抵抗を、オラクルはすぐに止めた。ありもしない打ち合わせでオラトリオの嫉妬を煽った自分に驚く。身体も心も、呆れるほど強く、オラトリオを求めている。オラトリオの全てを独占していたい。
自分の気持ちの余りの強さに、恐ろしくなる時もある。オラトリオを失う事になど、きっと耐えられないだろう。
「愛してるぜ、オラクル…」
オラクルは首筋にオラトリオの熱い吐息を感じ、全身を襲う快楽に意識を委ねた。うわ言のように、恋人の名を繰り返し呼びながら。
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