著・前田みや
雑記帳






 手を見れば、赤い血が見える。あの時、倒れこんできたオラクルの…………。
「うわあぁぁぁぁーー!」
 オラトリオはがばっと跳ね起きた。夢だというのに生々しい感触。いや、あれは夢ではなかった。自分の腕の中で冷たくなっていったオラクル。オラトリオが欺いたばかりに、自ら命を絶つことを選んだ………。
「オラクル……」
 オラトリオは顔を被った。


 せめて、思い出さなければよかった。
 目の前でのオラクルの自死は心の奥深く隠されていた『記憶』を揺り起こした。あれだけ、オラクルが思い出してもらいたがっていた『記憶』。
 閉ざされた研究者専用ネットの管理人と、その守護者であった頃の記憶。
 オラトリオが背負うには耐え切れず、だからこそ封印されていた記憶だったというのに。
 愛していた。誰より何より大事だった。失われてはいけない存在だった。なのに自分が見捨てた形でオラクルは一人寂しく消えて行った。その事実に耐え切れないオラトリオのために人間たちがその記憶を封じ込めた。オラクルがどれだけ願っても思い出せないはずだ。思い出してはいけない記憶だったのだから。

――愛していたよ

 最期のオラクルの言葉が耳に蘇る。
「オラクル、オラクル、オラクル………」
 また一人で逝かせてしまった。誤解させたまま逝かせてしまった。いや、あの時点でのオラトリオは記憶がなかったのだから、『事実』だったのかもしれないが…………それでも、あんな寂しく逝ってしまうべき存在じゃなかった筈なのに。
「………オラクル………」



 このままでは気が狂う。
 オラトリオを見ている姉弟たちが思ったとても不思議ではない。オラトリオは無理やりに病院へと連れて行かれた。
 本当は自分がオラクルをここへ連れてくるはずだったのに。
 自嘲の笑みが浮かぶ。どうしてあの時、オラクルを拘束しなかったんだろう。力は自分のほうが上だ、どうしてあのナイフを取り上げなかったんだろう。どうして………?
 ぐるぐると思考だけが廻っていく。
「どうなさったんですか?」
 医者が聞いてきてもオラトリオには答えられない。答える術はない。何を話せばいい? 自分とオラクルは『前世』からの恋人で、自分の裏切りによってオラクルは死んだ。再び巡り合った現世でも同じく。そんなことを言ったとて、医者に理解できるわけもない。
 ああ、本当にどうして信じてやらなかったんだろう。オラクルは必死に願ったのに。思い出せずともせめて信じてやればよかった。………本当に本当の真実だったというのに。
 答えないオラトリオの代わりにラヴェンダーが医者に説明する。
 目の前で幼馴染の従弟に自殺されて……。いえ、理由は判っていません。ただ、直前にその従兄弟のことについて相談があるとオラトリオは言っていたので……。ええ、そうかもしれません。危ないとわかっていて止められなかった自分への……怒り………。
 ラヴェンダーの説明は耳を通り過ぎて行くだけ。そんな単純なものではない。裏切ったのだ、自分は。前世でも今世でも。
 オラクルはもういない。なら………世界ももういらない。


 すべてを閉ざしたオラトリオの周りで時間だけが過ぎていく。
 だが、今のオラトリオに意味があるのはオラクルのことだけ。オラクルが言ったこと、したこと、そのすべて。

――……わたしにこういうことを教えたのはお前じゃないか

 そうだ、自分だった。何も知らない無垢な存在を最初に汚し、結果的に狂わせたのは自分。

――愛してる、オラトリオ、愛してる

 愛していた。多分オラクルが思うよりずっと。なのにどうして自分は裏切った?

――怖かった……

 どれだけ脅えたことだろう。欠片も身を護る手段を与えられず、逃げることすら許されず、ただ脅威に対する贄のように存在していたオラクル。どれだけ………オラトリオを呼んだことだろう。
 キラー・プログラムに嬲りものにされるようにその『生命』を絶たれたオラクルを思ってオラトリオはぼろぼろと涙を零す。
 どうして、どうして自分は……………?

――どうして思い出してくれない………

 今ならわかる。どうして思い出せなかったのか。耐え切れなかったからだ。

――嘘つき……
――私は重荷だから……ごめんね、でも…愛していたよ

 ……オラクルの、最期の言葉………。
 あの時はわからなかったけれど、自分だって愛していた。失えば狂ってしまうほどに。どうしてそれを生きているうちに気づけなかったのだろう。
 重荷なんかじゃない。前世(むかし)も現世(いま)も重荷なんかじゃなかった。オラクルの存在にどれだけ慰められ、力づけられ……だからこそ生きてこられたのに。それすら、伝えることができなかった。
 せめて嘘をつかなければよかった。思い出したなんて言って、愛してるなんて言って、嘘をついた。オラクルの行為に判断力が失われていたなんて言い訳にならない。どうして、どうして嘘をついて、取り返しの無いほどにオラクルを傷つけてしまったのか。どうして………!?
 際限のない思考。生きている限りオラトリオは同じことを思いつづけるしかない。

 どうして? どうして? どうして?

 そしてどうして自分は生きている? オラクルをあんな目に追いやったのに。どうして?








あの時、リンクを切らなければよかった。
自分だけ助かろうなんて思わずに、最愛の存在と共に消えて逝けばよかった。

あの時、嘘をつかなければよかった。
オラクルの狂気も愛も、ちゃんとまっすぐに受けとめてあげればよかった。








 できなかった自分には、『死』という救いすら許されない。
 狂った機械はその原因を、記憶を閉ざし動きつづけねばならなかった。
 狂った人間は狂ったまま、生きていかなければならない。
 救いなんて許されない。苦しんでいたオラクルの代りにすべての苦しみを背負って生きていかねば自分は許されない。いや、
 ………何をしたとて自分の罪は許されない。
 許される時があるのならば………

――お願い、思い出して……
――何度、生まれ変わっても、私は忘れられない……それなのに、お前は一度も思い出してくれない

 思い出してあげるから。今度巡り合った時には絶対に思い出す。そして、今度こそ、おまえのことを幸せにする。
 逃げないから。愛しているから。絶対、幸せに…………。


















「オラクル!」
 やっと見つけた恋人にオラトリオは心の底から微笑んだ。
 ようやく会えた。今度こそ幸せにする。
「? どちらさまですか?」
 だが『彼』は不思議そうに首をかしげた。
 自分がオラクルを間違えるはずはない。優しい微笑み、暖かな雰囲気、オラクル以外の筈はないのに。
「オラクル? 俺がわからないのか?」
 オラトリオはオラクルの肩を掴んで揺さぶった。覚えていないはずがない。だって、あの時(前世)、オラクルはこう言った。

――何度、生まれかわっても、私は忘れられない……

 だから、憶えているはず。忘れるはずない。永遠の恋人、伴侶である自分のことを。
「人違いじゃないでしょうか?」
 困ったように微笑う表情も間違いなくオラクルなのに、オラトリオのことを憶えていない。
「どうしました?」
 オラクルの連れの男がオラクルを庇うようにオラトリオとの間に立った。
「ん…この人が、私のこと誰かと間違えているみたいで………」
 甘えるようにオラクルが男に言う。
「オラクル…?」
 オラトリオは信じられない思いだった。ようやく会えたのに、ようやく幸せにしてやれる時が来たのに。

――どうして……思い出してくれない……

 オラクルの言葉が自分に返る。
「もういいでしょう。オラクル、行きましょう」
 男はオラクルの肩を抱いてオラトリオから引き離した。立去りぎわ、オラトリオを振り返るとにっと笑う。
「今まで……今世になるまで思い出さなかったあなたが悪い。生まれかわるたび、私もずっと見つめてきたのですよ、この人を」
 かすかに聞えた声は幻聴なのか。オラトリオは男が誰であったか気がついた。オラトリオとオラクルと同じプログラムをもったロボット。故に『記憶』を持つ可能性のあるもう一人の………。
「何か言った? クオータ」
「いいえ、何も……」
 クオータは恋人に優しく囁き返す。
 睦まじい二人の姿をオラトリオは呆然と見送った。


 そして。


――ごめんね……
――私はオラトリオの重荷だから

 二度と記憶は蘇らせないから。もうオラトリオの重荷にならないようにするから。

 『記憶』を持たないオラクルのどこか深いところで『オラクル』がつぶやいた。






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