「…トリオ__オラトリオ…!」
そこが病院であるにも拘わらず、オラクルは廊下を走った。
「オラトリオ……!」
乱暴にドアを開けると、目に飛び込んで来たのは真っ白なシーツ。幾分か乱れた鈍い金色の髪。そして、最愛の従兄弟の蒼褪めた横顔__
「……オラトリオ……?」
愛しい者の名を呼ぶ声が、幽かに震えた。
オラトリオが、事故で……
ついさっき、電話で聞いたばかりのシグナルの言葉が蘇る。
道に飛び出して、車に跳ねられそうになったちびを助けて、それで__
「う…そ…」
何かに操られているように、オラクルはベッドに歩み寄った。脚がもつれ、よろめいてそのままオラトリオの横たわる半身に凭れかかる。
けれども、オラトリオはぴくりとも動かない。
それで__オラトリオ…は……
それが……
祈るような想いで、最愛の者の安否を尋ねた。けれども__
どうなんだ?オラトリオの怪我の具合は……
__とに角…病院に……
シグナルの口調は、日ごろの明るさに似合わず歯切れが悪かった。聞き糾しても、電話の向こうで沈黙するだけ。
「__オラトリオ……」
もう一度、オラクルは愛しい者の名を呼んだ。
けれども、応える者いない。
「……そ……」
言葉にならないうめきと共に、オラクルは横たわるオラトリオの上に突っ伏した。
「__ひょっとして…泣いてんのか?」
耳元で呟く懐かしい声に、オラクルは驚いて顔を上げた。
「……お前__」
「ああ…生きてるぜ。腕と脚の骨にひびは入ったけど」
何となく、決まり悪く思いながら、オラトリオは言った。オラクルは暫く呆然とし、それからオラトリオの首をかき抱いた。
「良かった、お前が無事で……!」
強く抱きしめられ、オラトリオは思わず痛みに眉を顰めた。骨にひびの入った右腕と左脚はギプスで固定されているが、他にも体中、あちこちに打ち身や擦り傷がある。
が、その痛みすらも、オラトリオには幸福に思えた。
オラクルが自分の事をこんなにも心配し、大切に思い、無事を喜んでくれているのだ。それを思うと、改めてオラクルを愛しく感じる。
「…本当に大丈夫なんだな?腕と脚の骨にひびがはいった他には?」
間近に相手を見つめ、優しくオラクルは聞いた。
「背中に打ち身とか擦り傷とか__まあ、大した事はねえが」
言われて、オラクルはやや慌てて腕の力を抜いた。それから、オラトリオの頬の掠り傷にそっと触れ、改めて相手を見つめる。
「本当に、良かった……。ものすごく心配したんだぞ?」
「はは…悪ぃな。何かシグナルの奴が大袈裟に伝えちまったみてえで」
オラトリオの言葉に、オラクルは首を横に振った。
「シグナルは何も言わなかったよ。お前の怪我の具合を尋ねても言葉を濁すだけで。だから私はてっきり……」
「そ…そうだったのか?あいつきっと、気が動転してたんだな」
「骨にひびが入った程度で?」
何気ないオラクルの言葉に、オラトリオの頬が幽かに引きつった。
微妙に、オラクルの表情が変わる。
オラトリオの従兄弟で相棒で最愛の恋人でもあるオラクルは、我侭でちょっと意地悪な上にやたらと勘が良いのだ。特に、オラトリオに関しては。
「……お前がシグナルに、私に電話しろって言ったんだな?」
「あ…あ、そうだけど__」
「どうして自分でかけなかったんだ?電話も出来ない程の重傷でも無いのに」
「__そ…れは、その……」
適当な答えが見つからず、オラトリオはうろたえた。
オラクルの視線が痛い。
さっきまでの優しく愛情に満ちた姿が嘘のように消え去り、冷たい目でこちらを見据えている。
「本当は骨にひびが入った程度なのに、もっと大袈裟に伝えろってシグナルに言ったんじゃないのか?」
「お…俺がそんな事__」
「でもシグナルは私に嘘を吐くのが嫌だったから、あんな歯切れの悪い言い方になった」
オラクルの言葉は、疑問から確信に変わっている。
オラトリオは反論できなかった。まるっきり、図星なのだから。
「どうなんだ、オラトリオ」
「__すまん」
これ以上は誤魔化せない。この場は誤魔化せたとしても、シグナルに聞かれればそれまでだ__覚悟を決めて、オラトリオは謝った。が、オラクルの表情は険しいままだ。
「どうしてそんな事、したんだ」
「どうしてって……骨にひびが入った程度だなんて言ったら、お前、見舞いにも来てくれねえだろ」
「私は締切り前で忙しいんだぞ」
締切りなんぞ、1週間も先だし、俺が忙しい時にゃ、平気で買い物に付き合わせる癖に__オラトリオは思った。が、そんな事は言えない。
「私を試したんだな?」
冷たく、オラクルは言った。
「そん__俺はただ、エイプリール・フールの座興の積もりで……」
「エイプリール・フールだからって、吐いて良い嘘と悪い嘘があるぞ」
「ちょっと大袈裟にって言っただけだ。まさか死んだと思われるなんて__」
「私が悪いって言いたいのか?」
やべ……
オラトリオは、頭を抱えたい気分だった。オラクルは完全に怒ってしまっている。
試したかった訳じゃ無い。オラクルの愛情を疑ってなんぞいない。
ただ、こちらの都合も聞かずに美術館に連れ出したりする癖に、こちらから誘えば『忙しい』の一言で断られたり。
オラクルの誕生日やクリスマスにはいつも高価なプレゼントを奮発しているのに、オラクルがくれるのはCGのイラストだけだったり。
仕事の他に家事もしなければならないし、家族には隠している関係だから時間の都合をつけるのが大変なんだと判っている筈なのに、待ち合わせに少しでも遅れれば酷く機嫌が悪くなったり__
そんな事が何度もあれば、理不尽に思うのも当然だろう。だからと言って、オラクルへの想いが変わる訳ではない。それでも、本当に愛されているのだと、確認できる機会があっても良い……
思いながら、オラトリオはそれを口にはしなかった。これ以上、オラクルの機嫌を損ねたくは無い。
「……済まなかった」
もう一度、オラトリオは謝った。
「本当に、悪い事をしたと思ってるのか?」
「ああ…本当に悪かったぜ」
心を込めて、オラトリオは言った。オラクルが怒ったまま帰ってしまったりしたら、後から機嫌を直させるのは酷く厄介になるだろう。
オラクルの口元に、幽かに笑みが浮かんだ。オラトリオはそれを、オラクルの機嫌が直った印だと思った。
が、甘かった。
「だったら、お仕置きをしないと」
「お仕置きって__オラク…」
オラトリオが驚くのも構わず、オラクルは相手の布団をはいだ。腕と脚のギプスをちらりと瞥見し、それからオラトリオのシャツのボタンを外す。
「…っと待てよ、オラクル。ここは病院__っ…!」
中心を強く握られ、オラトリオはうめいた。オラクルはオラトリオを見下ろし、指をしなやかに動かす。
「待てってば__っあ…」
思わず唇から漏れた声に、オラトリオは慌てて袖を噛んだ。オラクルはオラトリオのそんな姿に、半ば冷たく、半ば婉然と微笑む。
「お前が大人しくしていれば良いんだよ。ギプスが外れたりしたら大変だし」
「だっ__ん……あふっ…」
何とか声を上げまいと、オラトリオは必死に袖を噛み締めた。右腕と左脚をギプスで固定されている上、左袖を噛んでいるので、ひどく不自由だ。碌に身動きも出来ないオラトリオの身体を、オラクルの指と舌と唇とが愛撫する。
「止め__くっ……はあッ…」
敏感な部分に与えられる乱暴な愛撫に、オラトリオはベッドの上で身じろいだ。
此処が病院だという事実が羞恥心をかきたて、気持ちを煽る。オラクルはオラトリオの身体を知り尽くしているし、オラトリオも刺激に耐えられないほど、若い。
「痛ッ__あうっ……!」
まだ十分に慣らされていない内に指を入れられ、オラトリオは押し殺した悲鳴を上げた。
「もっと力を抜いて……お前が辛いだけだよ?」
「止め……あぁ__ふっ…」
オラトリオが少しでも楽になろうと身体の力を抜くと、オラクルは指の数を増やした。オラトリオの脚が震え、引き締まった腹が波打つのを見遣りながら、オラトリオの内部を乱暴に掻き乱す。
「…私がどれくらい、お前を想ってるかなんて、お前には判らないんだから」
「__クル……あ__あぁっ…」
「お前にもしもの事があったら、私は……」
いきなり指を引き抜くと、オラクルはオラトリオから離れた。
「……オラク__」
「おしまい__私は帰るよ」
ばさっと乱暴に音を立てて、オラクルは布団を元に戻した。
「そ…れはねえだろ、オラクル〜」
身体の中心と奥とが熱く疼くのを感じながら、オラトリオは媚びるように相手の名を呼んだ。が、オラクルの視線は冷たい。
「言っただろ?お仕置きだって」
「……そんな……」
オラクルを見上げるオラトリオの瞳が幽かに潤む。その姿に、オラクルの表情が和らいだ。
オラクルはもう一度オラトリオの傍らに座り、優しく髪を撫でる。
「道路に飛び出しちゃいけないって、ちびには口をすっぱくして言ってあるのに」
「__あ…あ。俺も姉貴も、いつも言ってるが__」
「ちびを助ける為に、お前の身に万が一の事があったら…」
私はきっと、ちびを赦せない
まっすぐにオラトリオを見つめたまま、オラクルは言った。その表情の真剣さと言葉の冷酷さに、オラトリオは息を飲んだ。
軽く、オラクルは溜息を吐いた。
「私は身勝手で心が狭いから__嫌いか?私みたいな我侭な人間は」
「__いいや」
短く、オラトリオは言った。
「我侭さも優しさも、気まぐれも思い遣りも、冷酷さも温かさも__全てを含めて、お前が好きだ」
何より、お前が誰よりも俺を愛していてくれるから
オラトリオの言葉に、オラクルは軽く微笑った。今度は、冷たさを含まない優しい微笑みだ。
「私の気持ちなんか判ってない癖に。お前の嘘のせいでショック死するところだったんだぞ?」
「……それは、シグナルの奴が__」
「シグナルのせいにする気か?」
やや強く窘められ、オラトリオは肩を竦めるように身じろいだ。
「反省してるって。反省してます。もう絶対にしません」
「よろしい」
「……だったら、なあ…続き……」
オラトリオの言葉に、オラクルはつんと横を向いた。
「それは怪我がすっかり治ってから」
「オラクル〜〜」
オラトリオがもう一度、オラクルをかき口説こうとした時、ドアが開いた。シグナルと、シグナルの腕に抱かれたちびだ。
「オラトリオお兄さん、ごめんなさいです!」
シグナルの腕から飛び降りると、ちびは深々と頭を下げた。
「反省してます。もう絶対に道路に飛び出したりしません!」
くすりと、幽かに笑ってオラクルはオラトリオを見た。
「あー、まあ、姉さんにもこっぴどく叱られてるだろうし、反省してんだろうが……本当に、二度と道路に飛び出したりすんなよ、ちび」
「はいです!約束します。本当にごめんなさいです!」
一生懸命、謝るちびの傍らに、オラクルは片膝を付いた。
「ちび。今日のその気持ちを忘れたら駄目だぞ?」
「はいです!絶対に絶対に忘れません!」
忘れねえさ__オラクルの横顔を見ながら、オラトリオは思った。
オラクルに抱きしめられた時の幸福を
オラクルの涙を見た時の、胸の痛みを
忘れまい、決して
そして、愛する人に、二度と哀しみの涙は流させまい
絶対に__
この”事件”の後、オラクルが以前よりオラトリオに優しくなる__という事は無かったが、オラトリオのオラクルへの想いと幸福は変わらなかった。
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