「たでーま、オラクル」
「お帰り、オラトリオ」
いつものようにカウンターから出て守護者を迎えると、オラクルは微笑んで言った。
十年以上、続いたこの習慣もあと3日で終る__その想いが、オラトリオの気持ちを暗くした。
「お茶は?」
「ああ。ダージリンを頼む」
だが__と言うよりそれだから__表面上は明るく振る舞った。
まるで、何事も無かったかのように。
ソファのいつもの場所に腰を下ろし、オラクルの姿が見えなくなってから溜息を吐く。
あと、3日……
こうして身体に馴染んだソファに落ち着き、見慣れたホールを見遣っているととても信じられない。
だが、これは事実なのだ。
<ORACLE>に新しい守護壁が造られ、オラトリオは守護者の任を解かれる__その期日が、3日後に迫っていた。
オラトリオは<ORACLE>の監査官の任には留まるものの、オラクルとのリンクは切られる__必要が無くなるから。
「エモーションに貰ったクッキーがあるんだけど」
銀のトレイにティーセットを載せて戻って来たオラクルが言う。
「今日も来てたのか?」
「うん…コードと一緒に」
新しい守護壁の稼動が近づいてから、コードは毎日のように<ORACLE>を訪れていた。侵入者やウイルスに強いトラウマを持つ『弟』が、自らの力で外敵に対処しなければならなくなった事を案じているのだ。
だが、決定を下したのは他ならぬオラクルだ。
無論、その事はコードもオラトリオも知っているが。
「今日もコードに協力してもらって守護壁のテストをしたんだ」
嬉しそうに、オラクルは言った。
「完璧だって、コードは言ってたよ。これならばどんな侵入者が来ても、恐れる事は無いって」
「良かった…な」
疼くように胸が痛むのを覚えながら、笑顔でオラトリオは言った。
新しい守護壁の構想を、<ORACLE>管理機構から聞かされた時の衝撃は忘れられない。
他ならぬオラクルがそれを望んでいるのだと、彼らは言っていた。
理由は、幾らでもある。
<ORACLE>の利用者が増え、監査だけでもオラトリオが酷く多忙になってしまった事。
同じ理由で、オラトリオはいつでも瞬時に<ORACLE>にダイブ出来るとは限らず、非常時の対応にタイム・ラグが生じてしまっている事。
何より、オラクルは自らを護る力を身につける事を、強く望んでいた。
そうすれば、お前を危険なめに遭わせなくて済むから
オラクルの気持ちは、聞かなくても判った。
オラクルが自分を蔑ろにしているので無い事も判る。
だが、それでも……
俺は、お前には”無用”な存在なのか?
お前を護る為に俺は造られた。
それを……お前はこんなにも簡単に否定できるのか……?
「……オラトリオ……?」
幽かな不安と共に、オラクルは相棒であり、恋人でもある相手の名を呼んだ。
「どうした?」
優しく問い返され、不安が溶けるようにして消え去るのを覚える。
「__ん…何でもない。ただ……」
甘えるように言って、オラクルはオラトリオの肩に頭を乗せ、身を凭れさせた。
「新しい守護壁が稼動しても、お前が『もうひとりの<ORACLE>』である事は変わらない__それを、言っておきたくて」
「……判ってるさ、言われなくても」
「お前なら、そう言ってくれると思ってたよ」
嬉しそうに微笑んで、オラクルは続けた。
「勿論、『夜』にはここに戻って来てくれるだろう?今まで通りに」
「ああ__お前がそれを望むなら」
『夜』という言葉がもたらした甘い空気に誘われるように、オラトリオはオラクルを抱き寄せ、雑色のしなやかな髪に指を絡めた。
けれども、気持ちは変に醒めていた。
今まで通り……?
俺の役割を__存在理由を__あっさりと否定しておきながら……
そうでは無い、と、オラトリオは心中で否定した。
オラクルが新しい守護壁の稼動を決定したのは、愛する恋人を危険な役目から解放したかったから__それは、聞かなくても判っている。
聞かなくても判る?
どうして断言できる?
どうしてはっきりと聞いて確かめない?
本当ハ、聞クノガ怖イノダロウ?
不安をかきけそうとする様に、オラトリオはオラクルを一層、強く抱きしめた。顎に手を添えて引き寄せ、唇を重ねる。
「__オラ…ト__」
戯れのような軽いキスでは無く、濃厚で深い口づけ。突然の事に、オラクルはオラトリオの腕の中でもがいた。
「駄目……だって。まだ仕事中だぞ?」
予想通り黒衣の下に忍び込んで来た指先に、オラクルは抗議の声を上げた。
仕事?
あと、たった3日しかないのに…か?
俺よりも、ユーザーの方が大事なのか……?
「__すまん。俺はただ……」
腕の力を緩めると、オラクルはすぐに機嫌を直した。オラトリオの額にかかる髪を、軽くかき上げる。
「監査から戻ったばかりで疲れているんだろう?少し休んだら良いよ」
お前が目を覚ます頃には、私の仕事も終っているから__言って、オラクルは相手の頬に軽く口づけた。
「ああ…すまんな、手伝ってやれなくて__愛してる…ぜ?」
「私もだよ、オラトリオ」
本当に?
ゆらりと、オラトリオはソファから立ち上がった。
本当は、休みたくなど無かった。どうせ眠れないのは判っている。
それにオラクルの側から離れたくも無かった。独りでいたら、不安に押し潰されてしまいそうで。
無論、そんな泣き言を言える筈が無い。
今更そんな事を言い出せば、オラクルは困惑するだろうし、不安がるかも知れない。
プライヴェートルームに入ると、オラトリオはコートを脱ぎ捨てた。
ベッドに横たわり、目を閉じる。
これならばどんな侵入者が来ても、恐れる事は無いって
オラクルの言葉が脳裏に蘇る。そして、侵入者の恐怖に怯えていた姿も。
オラトリオという守護者を得ても、オラクルの恐怖は消えはしなかった。いつも華奢な身体を抱きしめ、必死で恐怖に耐えていた。
だから…か?
俺はお前の不安を鎮める事は出来なかった。もっと強くなりたいと、いつも望んでいた。そうすれば、お前の不安を和らげる事が出来るのだと信じて……
皮肉だ、と、オラトリオは思った。
新しい守護壁には、オラトリオがこれまで侵入者と戦って得たデータが利用される。言わば、経験値の継承。オラクルを護る為にオラトリオがしてきた事の全てが、オラトリオを”不要”なものにならしめるのだ。
ベッドの上で、オラトリオは寝返りを打った。
意志も感情も持たない守護壁に対し、嫉妬など感じている自分が情けない。オラクルを信じている筈なのに、どうしても不安が消えない。
もしも、守護壁が充分に作動しなければ?
もしも、強力な侵入者が守護壁を破れば?
宙に視線を漂わせながら、オラトリオはとめどもない空想に身を委ねた。
<ORACLE>を知り尽くし、最も強力な『侵入者』となりうるのが誰か、火を見るより明らかだ。
馬鹿げた事だと思いながら、その考えがつきまとって離れない。
「__くそっ…」
ベッドの上に身を起こし、低く毒づく。
識別信号でオラトリオだとすぐに判ってしまうし、何よりこんな事を考える自体、狂っている。
オラクル……
声も無く、最愛の者の名を呼ぶ。
頼むから側にいて、俺を抱きしめてくれ
俺が必要なのだと、守護者ではなくオラトリオが必要なのだと言ってくれ
俺は……
音も無く、扉が開いた。戸口には、オラクルのほっそりした姿。
「……どうかしたのか?」
平静を装って、オラトリオは聞いた。
「ん……お前に呼ばれているような気がして」
言いながら、オラクルはオラトリオに歩み寄った。そして、心配そうにオラトリオの額に触れる。
「具合が悪いんじゃないか?音井教授に連絡しようか」
「何でもねえさ。大丈夫だから心配すんな」
精いっぱい強がって言うと、オラクルは安心したように微笑んだ。
「ゆっくり休んだら良いよ。仕事はすぐに終らせるから」
「__ああ…判っている」
軽く触れられた唇が離れる。
それだけで、どうしようもなく孤独が煽られる。
いっそ、守護壁など破壊してしまえば?
いっそ、データも何もかも、灼いてしまえば?
いっそ……
妄執に苛まされながら、オラトリオはオラクルが去ってゆく姿を、為す術も無く見送った。
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コメント
15000のキリを踏まれたあずみさんに捧げるリク小説です。
「壊れかけのオラトリオに、どこまでも疑うことなく寄り添って笑っているオラクル」
トリオを信じきっているクルさんと、クルさんを信じてはいても不安を捨て切れないトリオってところです。 何かちょっとママを恋しがる子供みたいですが、うちのトリオは所詮、若造なので…;;
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