「里に戻ったら、一緒に暮らそうよ」
「……一緒に……?」
イルカの髪を撫でながら、カカシは言った。
「アナタが暗部にいるのは長くても2、3年だろうし、俺だっていつかは暗部を辞めて普通の忍に戻る。その時には、一緒に暮らそう?」
カカシは温もりを知らずに育ち、それを求めたことすらなかった。カカシに初めて温もりや安らぎを与えてくれたのは四代目で、再三の要請があったにも拘わらずカカシの暗部入隊が遅れたのは、四代目が難色を示したからだった。
「俺なんかが…あなたの側にいて良いんですか…?」
「アナタに側にいて欲しい。アナタの側にいると、すごく温かい気持ちになれるから」
言って、カカシはイルカを抱きしめた。
初めての恋に、カカシは夢中になっていた__イルカの迷いにも気づかない程に。
(9)
「カカシ先生。こちらでしたか」
アスマと別れて一人でいた俺に、あの人は明るく声を掛けた。
その日も一緒に飲みに行く約束をしていた事を、俺は思い出した。
「待機所の方にいらっしゃらないんで探しましたよ」
「済みません、イルカ先生。俺は……」
俺は自分を恥じた。
あの人の記憶が失われても、俺の罪が消えた訳では無い。それなのに俺は厚かましくあの人に近づき、あの人の笑顔を見ることで、己の罪悪感を和らげようとしていたのだ。
「…どうかしましたか?」
「…こちらから誘っておいて申し訳ないのですが、今日は……」
俺が言うと、あの人は残念そうに表情を曇らせた。
ちくりと、胸が痛む。
「今日は…あの、別の店にしませんか?」
そしてこれで終わりにしようと、俺は思った。
あの人は安心したように笑い、「お任せします」と答えた。
騒がしい居酒屋で飲む気になれなくて、俺は静かな小料理屋にあの人を連れて行った。
小上がりに通され、向かい合って座る。
いつもはカウンターで横並びだったので、こうして差し向かいで飲むのは初めてだ。
「良い店ですね。中忍の給料じゃ、なかなかこんな高級な所には来れませんよ」
「今日は俺の奢りですから、好きなものを頼んで下さい」
照れくさそうに笑ったあの人に、俺は言った。
「でも…それじゃ何だか申し訳ないです」
「誘ったのは俺ですから。気になさらないで下さい」
俺が言うと、あの人は礼を言って頭を下げた。
いつものように7班の任務の話などしながら二人で酒を飲み、肴を食べた。あの人はこの店でしか飲めない大吟醸をいたく気に入って、いつもより量を過ごした。
「カカシさんのご両親のお話って、聞いたことがなかったですよね」
やがて、あの人は言った。
ナルトとサスケが一人暮らしで、アカデミー生には両親の揃っていない子供が少なくないと、そんな話をした折だった。
「俺は捨て子だったんですよ。どこかの畑の案山子の足元に、犬の仔みたいにダンボールに入れて棄ててあったそうです」
はたけカカシという名の由来はそれなんですと、俺は笑って言った。冗談みたいだけれど、本当なんですと。
俺はあの人が笑うだろうと思った。酒の席でこの話をすると皆が笑う。忍の里では孤児や捨て子は珍しくもないから、座が湿っぽくなった事もない。
けれどもあの人は笑わなかった。
かと言って、俺に同情した風でもない。
酒のお代わりを頼み、それが来るのを待ってから、改めて俺に向き直った。
「俺の両親は12年前、九尾の化け狐に殺されました」
翳りの無い笑顔であの人が言うのを見て、俺はやや驚いた。
あの人の記憶は消されている筈だ。
暗部にいた時の事も、それ以前の全ても覚えていないのだと、アスマは言っていた。
何より九尾事件があの人のトラウマとなっているのだから、事件の記憶は何よりも深く封印されている筈だ。
「両親は俺を避難させようとしました。でも俺は両親と一緒に戦いたかったので、周囲の大人たちを振り切って、両親の元に戻ったんです」
幽かに苦笑して、あの人は続けた。
「正直に言えば、置いていかれるのが怖かったんです。両親は『必ず戻って来る』と言っていました。でも、九尾との戦いの熾烈さは離れた場所にいても判る程で、俺は、二度と両親に会えなくなるのではないかと不安になったんです」
「…イルカ先生…」
「それで俺は両親の元へと駈け戻りました。あの混乱の中で、よく両親の居場所が判ったものだと思います」
あの人は、天気の話でもしているかのような口調で続けた。
「炎と煙の中に両親の姿を見つけ、俺は二人を呼ぼうとしました。その時に九尾の攻撃で突風が起き、俺は飛ばされ、地面に叩きつけられました。正確にはそこに倒れていた忍の遺体の上に、ですが。
両親は俺に気づき、俺の名を叫ぶように呼びました。母親が動けずにいる俺に駆け寄って来た時、閃光が辺りを貫いて…」
あの人は、僅かに言葉を切った。
止めなければと、俺は思った。
それなのに、言葉が出ない。
「気が付くと、両親は血まみれの肉塊に変わっていました。俺は二人の血を体中に浴びて、何が起こったのかすぐには理解できませんでした」
「……イルカ先生。もう……」
「父親は右腕が千切れ、両脚が奇妙な形に曲がっていました。ぐちゃぐちゃに骨折したのだと思います。胸には大きな傷が幾つもあって、忍服が血だらけになっていました。母親は腰から下がずたずたに引き裂かれて、原型を留めていませんでした。頭の骨も砕けたらしくて、血と泥で顔が判らない程でした。それに__」
衝動的に、俺はあの人を抱きしめた。
座卓越しに抱きしめたせいで徳利が倒れ、皿が畳の上に落ちる。
それでもあの人は、動じなかった。
「…息子の俺が言うのも可笑しな話ですけど、俺の母親はとても綺麗な人だったんです。その顔が三分の一くらい崩れて、脳漿が__」
「止めて下さい!__お願いですから……」
やっとの思いで、俺はそれだけ言った。
喉が締め付けられるように苦しい。
「……済みません、カカシ先生。つまらない話をお聞かせしてしまって」
叱られてしょげた犬のような眼をして、あの人は俺を見た。
「あの時もあなたの部屋を汚してしまって、ご迷惑をお掛けしてしまいましたし…」
「あの時って……アナタ…記憶は……」
「覚えています__全てを」
そう言って、あの人は微笑った。
俺は半ば呆然として、あの人から手を離した。
何事も無かったかのように、あの人は続けた。
「暗部を解任されて里に戻った時、記憶を消去すると、三代目から言われました。でも俺は、両親を忘れてしまいたく無かったんです。両親だけでなく、子供の頃の友達や、忍になってからの仲間。あなたやアスマさん……皆、俺にとって大切な人たちです。だから、忘れてしまいたくはないんです」
「…でも、アスマはあなたが記憶を消されたと…」
「あなたやアスマさんには、記憶を消去された事にしておけと火影様に言い含められました。だから、あなたとも初対面の振りをしたんです」
あの人の口調はとても穏やかだったけれど、俺は落ち着かなかった。不安ですらあった。
あの人は全てを覚えているのだ。しかも、克明に。
それなのに、どうして翳り無く笑う事が出来る?
「でも…誰かに話したかったんです」
言って、あの人は幾分か躊躇うように俺の顔を見た。
「8年前のあの時、俺はあなたを怒らせてしまったのだと思いました。あなたの部屋であんな事をしてしまったから。だから、あなたは俺に腹を立てたのだと」
「違います。俺が…あの後、アナタの見舞いにも行かなかったのは、俺が行けばアナタを苦しませるだけだと思ったから……」
「それを聞いて安心しました」
そう言って、あの人は微笑った。
けれどもあの人は安心したようには見えなかったし、俺を詰っているのでもない。
ただの世間話でもしているかのように、言葉を続ける。
「カカシ先生がこうして度々、俺を誘ってくださるので、もしかしたらカカシ先生なら話を聞いてくれるのではないかと思ったんです。でも…つまらなかったですか?」
「つまらないって……アナタが俺に聞かせたい話というのは……」
「俺の両親の事です」
続けても、構いませんか?__あの人に問われ、俺は何も言えなかった。
ただ、黙ったまま頷いた。
その後、店が看板になるまで、あの人は話しつづけ、俺は黙って聞いていた。
耳を覆いたくなるような話ばかりだったが、俺はあの人を遮らなかった。
初め、これは俺に対する報復なのかと思った。俺は一方的な愛情と嫉妬と独占欲であの人を追いつめておきながら、あの人の気持ちを勝手に誤解して、見舞いにも行かなかったのだから。
けれども、これは報復ではなかった。
そして、あの人は救いを求めているのでもなかった。
ただ淡々と、翳りの無い笑顔で、あの人は話し続けた。
両親の惨たらしい死と、両親が生きていた頃の幸せな思い出を、どちらも何の感情も交えずに、淡々と。
あの人は記憶を消去して、哀しみから逃れようとはしなかった。
それがどんな辛い記憶であろうと忘れてしまいたくない程に、両親を愛していたのだ。
それでも苦しみに耐え続けることは出来なかった。ギリギリのところであやういバランスを保っていたあの人を、俺が追い込んでしまったから。
そして、あの人は壊れてしまった。
8年ぶりに再会したあの人の笑顔には翳りがなくて、晴れやかに見えた。
あの人はよく笑い、よく怒る。泣きもする。
けれども、そこにあの人の心は無い。
あの人の心は粉々に砕け散った__もう、傷つくことも痛みを感じる事もないほどに。
あの人は笑いもし、怒りもし、泣きもする。
だが、誰も気づかない。
それが、感情を伴わぬただの『反応』でしかない事に。
誰も、気づかない。
あの人が、心を失った抜け殻である事に。
「一緒に……暮らしませんか?」
店を出、あの人を家まで送って行った時、俺は衝動的に言った。
どうしてそんな事を言ってしまったのか判らない。
俺が側にいたところであの人を救えると思った訳ではないし、あの人の笑顔に何の感情も込められていないと気づいた今、側にいても辛いだけだ。
「…一緒に…?」
8年前のあの時のように、あの人は聞き返した。
「アナタに待っていてくれと言っておきながら約束を破った俺に、こんな事を言う資格が無いのは判っていますが__」
いいえ、と、あの人は俺の言葉を遮った。
「あなたは約束を守ってくれました。こうして、帰って来てくれたじゃないですか」
言って、あの人は微笑った。
「約束を破ったのは俺の方なんです。俺は…あなたを待ってはいなかった」
俺は、幽かに眉を顰めた。
「先約があるんです、両親と。ですから、あなたとはそもそも約束をする事も出来なかったんです」
12年前にと、あの人は続けた。
「両親は『必ず戻って来る』と言いました。だから先に避難所に行っていろ、と。それなのに俺は両親の言いつけに背いた。だから、両親はあんな事になってしまったんです」
「イルカ先生、それは__」
「今度こそ、俺は約束を守らなきゃいけないんです。両親が戻って来るまで、帰りを待っていなければ」
ですから、あなたとは何の約束も出来ません__そう言って、あの人は笑った。
「……でも…それでももし、アナタが誰かにご両親の話を聞いて欲しいと思う時には……」
あの人は首を横に振った。
「もう、充分ですから」
「イルカ…さん……」
「今日はどうも有難うございました。すっかりご馳走になってしまいまして」
言って、あの人は礼儀正しく一礼すると、ドアを開けた。
迷いも躊躇いもなく俺に背を向け、振り返らなかった。
俺は為すすべもなく、あの人がドアの向こうに消えるのを見送った。
両手をポケットに入れ猫背気味に歩き、俺は自分の家に向かった。
風が、道端の雑草をざわめかせる。
昼の熱気を孕んだその風に、血の匂いが混じっていた。
fin
後書きという名の蛇足
アニメ20話受付所のシーンでのイルカ先生の余りの可愛さに血迷って書いてしまったイルカ総受け話;
それでも25歳のイルカ先生ってどうしても私のイメージの中で受けにならないので、8年前設定にしてしまいました。
現在編でのカカシ一人称は初挑戦でしたが、意外と書き易かったです。
少しはヘタレ振りが緩和された…?
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