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「私……何の病気なんだ?」
オラトリオと共にアパートに戻ると、幾分か不安そうにオラクルは聞いた。
「…軽い胃炎と、それに気管支炎だ」
オラクルの不安を鎮めようと、優しくオラトリオは言った。
「それって…重い病気なのか?」
オラトリオは微笑して首を横に振った。
「胃炎は薬で治る。気管支炎の方はもうちょっと厄介だが、入院する必要は無いし、心配する事は無いぜ?」
「コードは……私が病気だと判ったから、私が要らなくなったのかな…」
視線を落とし、半ば独り言の様に呟いたオラクルの肩に、オラトリオはそっと手を置いた。
「…検査でお前の病気の事は判ってただろうが、それが理由な訳じゃない。それに……研究所の事は、もう、考えない方が良い」
オラクルは何も言わず、俯いたままでいた。
考えるなと言われても、自分がクローンだと知ってしまった事や、自分自身のクローンのホルマリン漬けの遺体を見た事を、忘れるのは無理だ。

「……気管支炎の治療の為に、転地療養を勧められた」
黙り込んでしまったオラクルに、オラトリオは言った。
「転地療養…?」
「ああ。要するに、どこか空気の良い所に行って、ゆっくり休めって事だ__俺も一緒に行くぜ」
オラクルは、何度か瞬いた。
「旅行に行くって事?オラトリオも一緒に?」
「そうだ。どこに行きたい?」
数ヶ月前、オラクルと共に一泊旅行に出かけた時の事を、オラトリオは思い出した。
7年の間、殆どずっと研究所の中に篭りきりの生活だったせいか、オラクルは子供のようにはしゃいでいた。
出来ればもっと頻繁に連れて行ってやりたいと思ってはいたが、様々な理由から、泊りがけで出かけたのはその一度きりだ。
「いつもは日帰りであわただしかったが、今回は一ヶ月の休暇を貰ってるし、ゆっくり出来るぜ?遠くでも構わない」
「本当に?外国でも良いの?私、一度、飛行機に乗ってみたかったんだけど」
目を輝かせて言うオラクルに、オラトリオは軽く苦笑した。
外国でもどこでもオラクルの好きな場所に連れて行ってやりたい。が、一切の公的書類を持たないオラクルが国境を越えるのは無理だ。
「身体に障るといけないから、余り遠くや気候の違う場所はちょっと…な。けど、国内線くらいなら大丈夫だろう」
地図を取って来る__言って、オラトリオは席を立った。

それから二人は、時間の経つのも忘れ、夜の更けるまで『旅行』の計画を練った。
移動が続くのは療養の妨げになるので一週間単位でペンションに部屋を借りる事にして、最初の目的地を決めた。森と湖のある保養地で、周囲には美術館や植物園もある。
「でも、オラトリオ。一ヶ月も休んで大丈夫なの?」
やがて、思い出したようにオラクルは訊いた。
「人手不足で忙しいんだって、いつも言ってたのに」
「俺の事は心配しなくて大丈夫だ。もし、お前が……」
途中で、オラトリオは言葉を切った。
それから、続ける。
「お前が、俺よりも他の誰かと一緒に行きたいんでなけりゃ…」
「オラトリオと一緒が良いよ」
躊躇いも無く、オラクルは言った。
オラトリオの手に軽く触れ、まっすぐに相手を見つめる。
「クォータから助けてくれてありがとう。それに、研究所に迎えに来てくれた事も」
「礼なんか必要ないぜ。それより…お前に辛い想いをさせちまった。俺を…赦してくれるか?」
オラクルは優しく微笑み、頷いた。
そして、オラトリオの肩に身を凭れさせる。
「オラトリオが側にいてくれると、すごく安心できる。これからも、ずっと一緒にいたい」
「__ああ…。ずっと一緒に……」
オラクルの身体をそっと抱きしめ、囁くようにオラトリオは言った。



二日後の朝、二人はレンタルしたスーツケースに荷物を詰めて飛行機に乗り、午後には目的地に着いた。部屋は建物の二階にあるキッチン付きのコンドミニアムで、窓から湖が見える。
オラクルは景色の美しさとこじんまりした居心地の良い部屋を気に入り、毎日、オラトリオと一緒に森を散歩した。
初めのうち、オラクルはモルヒネの副作用で軽い吐き気や眩暈を訴えたが、制吐薬の服用でそれもすぐに収まった。
オラクルは食欲が無く疲れ易かったにも拘わらず、痛みが抑えられているせいで自分が病気なのだという事を忘れるくらいだった。
オラトリオは自分の感情と戦い続けた。
オラクルが楽しそうにしている姿を見ている間は気持ちが和むが、夜、眠りに就く時にはいつも不安だった。
このままオラクルが目を覚まさないのではないかと思うと落ち着いて眠っていられず、夜中に何度も起きてオラクルの様子を確かめた。
時には、オラクルの寝顔を見つめたまま、まんじりともせず夜を明かした。
オラトリオがいつも側にいる安心感から、オラクルは睡眠薬の必要も無く安らかな眠りを貪っている。
「愛してる…ぜ?」
静けさに耐えられなくなると、オラトリオは呟いた。
オラクルは答えることも無く眠り続けている。
オラトリオは上体を屈め、そっと唇を重ねた。

予定を変え、最初の保養地に2週間とどまった後、二人は次の目的地に移動した。
美しい海に囲まれた小さな島だ。
天気の良い日には船を借りて釣りに出かけた。釣りをするのが初めてのオラクルはここでもとても楽しそうで、子供のようにはしゃいでいた。
「クォータの実家って、どこにあるんだ?」
釣った魚を海に還しながら、その日、オラクルは訊いた。
「…ここからだとかなり遠いが…」
「温室に薔薇が咲いてるって言ってたよね」
「温室じゃない。薔薇は庭にあるんだ__今の季節じゃ花は咲いてないだろうが」
オラトリオの言葉に、オラクルは幾分か意外そうに相手を見た。
「行った事、あるの?」
「__ああ…。十年も昔の話だが、奴とは高校が一緒だった」
従兄弟のオラクルを高校に連れて行った時に、クォータがオラクルを家に誘ったのだ__家に薔薇を見にいらっしゃいませんか…と。
全盲のオラクルに薔薇を見ることは出来なかったが、広い庭を埋め尽くす薔薇の香りを愉しんでいた。それに、温室の蘭も気に入った様子だった。
「……行ってみたいのか?」
オラトリオの問いに、暫く躊躇ってから、オラクルは頷いた。
「クォータはちょっと怖いけど、オラトリオが一緒なら平気だから」
屈託無く笑って、オラクルは言った。
「一緒に行ってくれる?」
「あ…あ…。勿論」
「薔薇が咲くのって5月頃だよね?だから、来年の春に」
すぐには何も言えず、オラトリオはオラクルをそっと抱き寄せた__表情を見られなくても済むように。
「そうだ…な。来年の春に…」
「ありがとう、オラトリオ」
嬉しそうに微笑んで、オラクルは言った。



その夜、オラクルはだるさを訴えて早めにベッドに入った。
オラトリオに見守られながら眠りに就き、そのまま目を覚ますことは無かった。
オラトリオと共に保養に出掛けて、3週間後の事だった。









1年後。
用事を済ませ、家に戻る為に列車に乗ろうとしたエモーションは、駅で見覚えのある相手の姿を見つけた。
「オラトリオ様…?」
名を呼ぶと長身の男は振り向き、軽く会釈した。
「病院をお辞めになったって、妹から聞きましたわ。街も出られたとか」
オラトリオは頷き、パッケージから煙草を取り出した。
「何故…ですの?せっかく何年も苦労して勉強なさったんでしょうし、その為の教育と訓練を受けてらしたのに」
「何故?」
鸚鵡返しに、オラトリオは言った。
煙草に火を点けかけて止め、パッケージに戻す。
「…俺が医者になろうと思ったのは、従兄弟の為だ。俺が医大に入る前に、あいつは逝っちまった」
黙ったまま、エモーションはオラトリオが続けるのを待った。
オラトリオはエモーションの方を見ず、まっすぐ前を向いたまま独り言の様に呟いた。
「結局…二人とも救ってはやれなかった。どんな名医でも、二人を救えなかっただろう__医学なんてそんなもんだ」
「だから…医学に幻滅したとおっしゃるのですか?」
オラトリオは暫く黙っていた。
それから、ゆっくりと首を横に振る。
「…そもそも何かを期待していたかどうかも判らない。最初に医者になろうと思ったのはガキの時だ。高校を受験する頃には、従兄弟の目が見えるようにはならないと判ってた。それなのに何で医大を志望したんだか、今では判らない」
オラトリオはエモーションを見た。
「何であんたにこんな話をしてるのかも判らないぜ」
「……そうは思いませんわ」
僅かに躊躇った後、エモーションは言った。
オラトリオは幽かに眉を顰める。
「オラトリオ様はご存知ないかも知れませんが、オラクル様は療養先から何度も電話やメールを下さいましたの」
「…絵葉書を送ったのは知ってたが…」
微笑して、エモーションは続けた。
「オラクル様、いつもとても楽しそうでしたわ。その日、どこに行って何を見たとか、次の日の予定とか話して下さって、それは楽しそうで幸せそうで__」
不意に、エモーションは声を詰まらせた。
「ご自分がクローンだと知って傷ついていた事など、まるで嘘だったみたいにはしゃいでらして……」
オラトリオは黙ったまま、エモーションの肩に軽く手を置いた。

薔薇の咲く頃には、いつも亡くなった従兄弟を思い出していた。
そして今年の春には、二人のオラクルを想った。
記憶の中の二人は、意外な程、互いに似ていなかった。

「ですから、『救ってやれなかった』とは思いませんわ」
やがて落ち着くと、きっぱりした口調でエモーションは言った。
「…もう一人のオラクルは元気ですか?」
相手の言葉に答える代わりに、オラトリオは訊いた。
エモーションは頷いた。
「兄の勧めもあって定期的に健康診断を受けさせていますけど、とても健康で、祖母の良い話し相手になってくれてますわ」
「コードは、まだ研究所に?」
「あの研究所は閉鎖されました」
僅かに声を潜め、エモーションは続けた。
「詳しいことは判りませんが、研究方針や費用の事でいろいろと問題があって、研究所を維持していくのが難しくなったのだそうです。兄は、今はアメリカの医大で病理の研究をしています」
「…クローンは?」
「その研究は続けています__良くも悪くも、兄は自分の意志を曲げない人ですから」
勿論、今は人間のクローン実験はしていないがと、エモーションは付け加えた。



一人暮らしのアパートに戻ると、オラトリオはクローゼットからスケッチブックを取り出した。
オラクルが遺した物だ。
丁寧にページをめくり、オラトリオは1枚1枚の絵を、時間を掛けて見つめた。
オラクルが亡くなって暫くの間は、オラクルの絵を見るのが辛かった。だから、数ヶ月の間はスケッチブックをしまい込んだままでいた。
今ではむしろ、気持ちが安らぐ。
それでも、保養先でオラクルが描いていた絵を見ると、そしてそれが描きかけのままである事を思うと、辛くなるが。
オラトリオはベッドサイドテーブルの上に手を伸ばし、写真たてを取った。
「なあ…お前の絵、子供たちに見せてやっても良いか?」
銀のフレームの中で幸せそうに微笑む相手に、オラトリオは囁いた。
「病室に閉じ込められてると、それだけで生きる気力を無くしちまう子もいるんだ。お前の絵を見れば、きっと元気付けられると思うぜ?」
オラクルは何も言わず、写真の中で微笑みつづける。
オラトリオは写真を抱くようにして、ゆっくりと目を閉じた。






二週間後、オラトリオは以前の病院に戻った。
オラクルがそうしたように小さな鉢植えを幾つも買い込み、新しく借りたアパートの窓辺に並べる。
そして、オラクルの絵の何枚かを病院に『寄付』し、小児科の病室に飾った。











Fin.





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