「だからあやつはひよっ子だと言うんだ」
不機嫌そうに言って、コードは杯を傾けた。嫌、呷ったと言う方が正しい。オラトリオは黙ったまま、傍らに座るひとの姿を見遣った。外見は変わらないが、酔いはその口調に現れている。
「…そうっすね」
「軽々しく相槌を打つな。同じひよっ子のお前に何が判る」
オラトリオは苦笑した。それは、本当に苦い笑いだった。
「師匠の気持ちが判るなんて言いませんけどね。もし__俺がオラクルに同じ事をされたら…」

コードも逃げて

 その一言と共に、シグナルはコードを切り離したのだ。咄嗟に、被害を最小限に喰い留めようとした。結果としてあの時、近くにいた全ての者が助かったのだから、その判断は正しかったのだろう。

ただ、『正しい』行いが、時として誰かを酷く傷つける事もある。

「フン…」
軽く鼻を鳴らし、コードは更に杯を呷った。オラトリオもそれに倣う。コードの構築した酒は、見た目ばかりか味も透明で、研ぎ澄まされていた。
 まるで、細雪の様に。
「貴様はオラクルのスペアでもあるのだからな。万が一の時はオラクルを棄てて逃げるのも、仕事の内だろう」
オラトリオの頬が、ぴくりと震えた。
「__済まん……呑み過ぎたらしい」
溜息と共に、コードは言った。オラトリオは暫く黙っていたが、やがて席を立った。
「…帰ります」



「どうだった?コードは」
<ORACLE>に戻ると、すぐにオラクルが聞いて来た。シグナルのボディは修理中で、プログラムは休眠状態で<ORACLE>に預けられている。そのシグナルのプログラムの状態を伝えに、オラトリオはコードの『家』を訪れたのだった。
「…大丈夫だろう。あのひとの事だから」
「シグナルの事、心配してただろう?」
オラクルの問いに、オラトリオは応えなかった。幽かに小首を傾げ、オラクルは不思議そうに相手を見遣った。

万が一の時はオラクルを棄てて

「…オラトリオ?」

逃げるのも、仕事の内

「オラトリオ、どうし__」

<ORACLE>の、全てを護る為に

不意に強く抱きしめられ、オラクルは言葉を失った。



「__済まなかった」
暫くの後、腕の力を緩めると、オラトリオは言った。
「どうしたんだ、一体。何かあったのか?」
「もう、大丈夫だ。何も__」
「オラトリオ」
少しきつい口調で、オラクルは相手の名を呼んだ。両頬に触れ、間近に見つめる。
「話してくれ。何があった?」
オラトリオは、気持ちの整理をつけないまま<ORACLE>に戻った事を後悔した。同時に、後悔などしている自分を嘲笑った。オラクルが彼の様子に気付く事、何があったか聞き出そうとする事は、初めから判っていたのだから。
 話せば、オラクルを苦しめてしまう事も。それでも、話さずにはいられない事も。
「…シグナルの奴、最期の土壇場で師匠を切り離したんだ。暴走するシリウスをコントロールしようとして」
出来るだけ何でも無い事の様に、オラトリオは言った。
「それで…師匠、落ち込んでた」
ぼそりと、オラトリオは付け加えた。オラクルは何も言わない。僅かに躊躇ってから、オラトリオはオラクルに視線を向けた。
 白い貌が蒼ざめている。思っていた以上に、オラクルにショックを与えてしまったらしい。
「お前は…私が同じ事をするだろう…と?」
オラクルは、眼を伏せた。
「…危険が一定の閾値を越えたら、私は恐怖を感じなくなる。全てのシステムリソースをデータの退避に割り当てるから、感情プログラムが作動しなくなるんだ__知っていたか?」
むしろ淡々とした口調で、オラクルは言った。が、それでも、オラトリオは殴られたような衝撃を受けた。
「その時には全てのネットワークを切り離す。侵入者は締め出されるけれど、既に送り込まれたキラー・プログラムは残る。システムが荒らされるのを防ぐ為に、私はそのキラー・プログラムを取り込んで…」

自爆する

「…オラクル、そん__」
「勿論、お前は”外”に逃がすよ。ネットワークを遮断する時にね」

貴様はオラクルのスペアでもあるのだから

 オラトリオは、口を噤んだままオラクルの伏せられた睫を見つめていた。
「侵入者への恐怖のせいでシステム全体をダウンさせかけてしまった時に__お前が造られる前の話だけれど__調整されたんだ。恐怖そのものはアラートとして作用するから一定の閾値を設けて、それを越えた時だけ、感情を殺すように」
「……酷すぎるぜ、そんな…」
オラクルは伏せていた眼を上げ、困惑しているかのような表情で、相手を見た。
「でも…私は苦しまずに済むんだよ?」
全てのネットワークを遮断し、唯ひとりの守護者を遠ざけ、キラー・プログラムを取り込んで自滅する__それでも、痛みも苦しみも感じない。孤独も恐怖も何も。
「__俺は…最期までお前の側にいたい」
思わず、オラトリオは口走った。そんな事を言えばオラクルを困らせ、苦しめるだけだと判っていても。
 不意に、オラクルのローブの下から数多のケーブルが床を這っているのに、オラトリオは気付いた。長く伸びたそれらは、そのまま闇に連なるように見えた。
 オラクルの全ては、<ORACLE>と共にあるのだ。意志や感情すらも、データを護り、システムを安定稼動させる為に最適化されている__それを、オラトリオは改めて思い知らされた。
「__私が…同じ事を望んでいないとでも…?」
オラクルの声が震えた。かろうじて抑えていた感情を押さえ切れなくなったオラクルを、オラトリオはきつく抱きしめた。



「__悪かった」
時が止まったような静寂を破り、やがてオラトリオは言った。
「…こういうシナリオが用意されているって、誰もお前に話さなかったんだな」
「__ああ…」
無論、別のシナリオもある。が、オラクルはそれを口にする気にはなれなかった。
 オラクルは、間近にオラトリオを見つめた。
「私が停止しても、自分を責めないでくれ」

どうして、そんな事が出来る?

「システムを出来るだけ早く、正常稼動に戻す為に、お前は<ORACLE>を統御しなければならない。それが、<ORACLE>全体を護る事であり、お前の__私たちの仕事なのだから」

お前を喪えば、全ては無意味だと言うのに

「お前なら…やり遂げてくれると信じている」

俺は__それ程、強くない…

「…そんな時は来やしないぜ__来させない」
低く、オラトリオは言った。オラクルは何か言いたげにオラトリオを見た。が、すぐには何も言わず、視線を落とした。
「…信じているよ。お前が、<ORACLE>(わたし)を護ってくれるのだと」
「誓うぜ」
短く、オラトリオは言った。それ以上、口にすれば、感情を抑えられなくなりそうで。





 やがて、<ORACLE>内部は、静かな闇に包まれた。全ての想いも感情の揺らぎも、ただグリッドの上に煌く電子の光と化して。





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