『悪ぃな。木曜は用事が出来ちまって』
「仕事?」
何気なく言ったオラクルは、すぐに聞いた事を後悔した。
『__嫌……仕事って訳じゃ……。ちょっとした野暮用だ。金曜なら__』
「木曜が最終日なんだよ」
前にも言ったけど__その言葉を、オラクルは口にしなかった。
オラクルの好きな画家の特別展がある事は、オラトリオにも話してあった__一緒に行く積もりだったから。二人とも休める日がなかなか無くて、最終日間近になってしまったのだ。
一緒に行こうと誘った訳でも、その約束をした訳でも無い。けれども、3年前に恋人同士にになってから、美術館にはいつもオラトリオと一緒に行っていた。
だから今回もオラクルはその積もりで一緒に休める機会を待っていた。そして、オラトリオも同じ気でいるのだと信じていた__疑いも無く。
『美術館て何時までだっけ?もし__』
「良いよ、無理しなくて。私一人で行くから」
『待てよ、オラクル。午後からでも良いんだったら__』
「ちびを迎えに行く時間に間に合わせようと思ったらゆっくり見てられないだろう?だから良いよ。ごめんね、締切り前なのに電話して」
それだけ言うと、オラクルは一方的に電話を切った。

「オラトリオと行くのでなかったら、別に最終日でなくても」
電話を切ってから、オラクルはぼやいた__普段は独り言を言う癖などないのだけれど。
デスクの引き出しから、2枚買ってある前売券を取り出して眺める。

絵を見てる時のお前が好きだから

不意に、オラトリオの言葉が蘇った。
絵画に興味がある訳でもないオラトリオが、美術館に行く時は俺も誘えと言った時に、不審に思ってオラクルは理由を尋ねた。その、答えだった。

好きな絵を見てる時のお前は活き活きして輝いていて__そんなお前を見てると、俺も幸せになれる

衒いもなく言い切った恋人の晴れやかな笑顔に、頬が火照った事は、3年近くたった今でも忘れられない。
「明日でも構わないし……」
独りごちながら、手の中で前売券を弄ぶ。
別に、前売券などどうでも良いのだ__金額的には。
けれども、わざわざ買っておいた前売券を無駄にするのは、特別展の主たる画家に対する冒涜のような気がした。
「__ごめん、突然電話して。今、大丈夫?」
気付いた時、オラクルはクォータに電話していた。



最終日の前日、水曜にオラクルはクォータと共に美術館に来ていた。
好きな画家の絵をダイレクトに見られるのは、確かに心躍る歓びだった。
けれども__
夢中になって絵に見入って、ふと振り向いた時、美しい紫の瞳が自分を見守っていたのを知るのは、好きな絵を見る以上の歓びと安らぎを与えてくれた。
最愛の者から愛されているのだという確信が無ければ、世間的に認められない関係など続けられなかっただろう。
けれども__
意図的に考えないようにしていた事柄が、オラクルの不安をかきたてる。

野暮用って何だ?
仕事以外の用事って?

オラトリオが答えをぼかそうとしていたのは明らかだ。だからオラクルも、それ以上を聞きただそうとはしなかった。
それが、却って悔やまれる。
恋人同士になって3年。
異性なら、結婚するか別れるかの節目になるような年月なのだろう。
言ってみれば、『倦怠期』?
お互いに慣れ、無用な気遣いが要らなくなった半面、新鮮味も失われ、別な誰かに興味を惹かれる様な。
「…どうかなさいましたか?」
編集者の慇懃な問いに、オラクルはやや驚いて相手を見た。
「私が……どうかしたように見える?」
クォータは苦笑し、僅かに眼鏡の位置を正した。
「美術館にご一緒するのはこれで二度目なのですが__好きな絵を見ている時のあなたは、とても活き活きして輝いてる__それが今日は……」
済みませんねと、クォータは続けた。余計な事を申し上げて…と。
オラクルは視線を逸らした。
恋愛に関して鈍感なオラクルでも、この担当者が自分にどんな感情を抱いているかは知っている。平日だというのに、オラクルと一緒に美術館に行く為にわざわざ休みを取ったのは、それなりの理由があるからだ。
だからこそ、仕事以外の付き合いは極力避けるようにしていた__今までは。
「別に、どうもしていないよ」
言葉の空しさを感じながら、オラクルは言った。



翌日。
スケッチをする為に、オラクルは外に出掛けた。
仕事が詰まっていない時の、それは気晴らしでもあり、スキルを磨く為の鍛練でもあった。
ともあれ、そうやってふらりとスケッチに出るのは、オラクルの楽しみの一つだった。
それがまさか、あんな光景を目にする羽目になろうとは。
22、 3の、少女らしさを多分に残す若い女性__それが、オラトリオと一緒に喫茶店から出てきた相手だった。
肌は白く亜麻色の髪は長く__まるで人形の様な可愛らしさがあった。その彼女は何故だか俯き、哀しそうだった。そしてオラトリオはそれを宥めるように、囁いているらしかった__触れそうなほどに、頬を寄せ合って。
踵を返し、オラクルはその場から離れた。



部屋の隅に、オラクルは膝を抱えて座っていた。大分暗くなっていたが、灯かりも点けず。
思い出すまいとしても、昼に見た光景が脳裏に焼き付いて離れない。
このひと月程、オラクルもオラトリオも仕事が忙しく、会う機会がなかった。だからこそ、オラトリオと一緒に美術館に行くのを、オラクルはとても楽しみにしていた。
だが、オラトリオはあの女性に会う方を優先したのだ。
「……馬鹿……」
不意に目頭が熱くなって、オラクルは唇を噛んだ。恋人同士になる前、オラトリオが奇麗な女の人と一緒にいるのを見る度にオラクルを苛んでいた感情が、苦く蘇る。

お前が好きだ

3年前。突然、訪ねてきた従兄弟は、ひどく真剣な表情で、そう言った。

好きなんだ、オラクル……

けれども、あれから3年の月日が経った。3年もあれば、人は変わる。
オラトリオが昔から女性にもてて、今も色々と誘いがあるのは知っている。不安がない訳では無かったが、それでもオラトリオを信じていた。
けれども__
「続く訳ないよ…ね。こんな関係……」
世間的にも認められず、家族にも隠さなければならない__そんな関係がずっと続けられるのかと、漠然とした不安はあった。その不安を鎮めてくれたのはただ、オラトリオに愛されているという想いだけ。
「……馬鹿なんだから……」
呟いた時、電話が鳴った。
『悪かったな、今日、付き合えなくて。これから飯でも食いに行かねえか?お詫びに奢るぜ』
いつもの調子でオラトリオは言った。
まるで、何事も無かったかのように。
『30分位で迎えに行けると思うけど、それで良いか?』
オラクルは答えなかった。若い女性を宥めていたオラトリオの姿が目の前にちらつく。
『オラクル?__なあ…怒ってんのか?今日は本当に済まなかったって思ってるぜ。最終日は金曜だって思い込んでたし__』
「良いよ、無理しなくて」
相手の言葉を遮って、オラクルは言った。自分の声が、変に乾いて聞こえる。
「私のほかに誘いたい相手がいるんじゃないのか?食事なら彼女と行けば良い」
『__何__』
一方的に、オラクルは電話を切った。



大きな薔薇の花束を持ってオラトリオが現れたのは、30分後の事だった。
3年前にも、オラトリオは同じ様な花束を抱えていた。
今は、それを受け取る気になれない。
「何かお前すげー誤解してるぞ」
勝手に部屋に上がり込みながら、オラトリオは言った。
「もしかして今日、俺が女の子と会ってたのを__」
「可愛い子だったね」
「……やっぱり見たのか。あの店はお前もよく行くからな。けど今日はお前は美術館に行ってると思ったから……」
がしがしと髪をかき乱しながら言う従兄弟を、オラクルは苦い想いで見つめた。
誤魔化されるのは厭だった。
他に好きな人ができたのなら、はっきりそう言われた方が良い。
「あれはただの大学の後輩で__」
「良いよ、無理しなくて。私よりあの子と会う方が、お前には大事だったんだろう?」
言う積もりも無かった意地悪な言葉。
嫉妬で、胸が苦しい。
「だから今日は本当に済まなかったって__だーもう、判った。本当の事を言うぜ」

聞キタクナイ

「あの子はな、お前の事が好きなんだ」
「…………え?」
予想もしていなかった言葉に、オラクルはやや驚いて相手を見た。
「何かの機会に俺と一緒にいるお前を見かけたらしいんだな。で、『あのとっても優しそうで素敵な人は誰』だって、俺に聞きに来たのが2週間くれぇ前かな」
オラトリオはその時、オラクルには恋人がいるから諦めろと言ったのだが、彼女はすぐには諦めなかった。
「大人しそうな外見と違って情熱的な子でな。俺としちゃ、お前に直接会わせたくなくて必死だったってぇ訳だ」
「……どうして会わせまいとしたんだ?」
「お前があの子に惚れちまったら困るだろ」
半ば照れくさそうに、半ばふてくされたように言う恋人に、オラクルは思わず幽かに笑った。
「私を信じていないのか?」
「お前が俺を信じてるのと同じくらいに信じてるぜ」
言って、オラトリオは機嫌を直したオラクルの肩を抱き寄せた。
「仕返しか?でも…確かに可愛い子だったな」
「止めとけって。結構、我侭なお嬢さんで、コンパとバイトで忙しいからどうしても木曜の午前中しか都合がつかないとか抜かしやがるし。『外見も性格も抜群に良くて、誰よりもオラクルを愛してて、心底オラクルから愛されてる恋人がいるんだから諦めろ』って言ってんのに中々諦めねえし」
「誰のことなんだか」
くすくすと笑う恋人に、オラトリオは軽く触れるだけのキスを繰り返した。
「事実だろーが__少なくとも一つは」
「__そう…だね。少なくとも一つは」
その言葉を合図とするように、オラトリオはオラクルの身体をソファに沈めた。突然の事に、オラクルはやや慌てて抗議した。
「ちょっ__馬鹿。晩御飯の方が先だろ?」
「飯よりお前が食いたい♪ひと月ぶりに会えたんだから、つれない事は言いっこなしだぜ?」
「でも……私はお昼も食べてない」
安心したせいか、急に空腹を覚え、オラクルは言った。
その言葉に、オラトリオは心配そうに眉を顰める。
「お前は何かあるとすぐ、飯を食わなくなっちまうからな……。やっぱ一人暮らしさせとくのは心配だぜ」
オラトリオは、オラクルの前髪を優しくかきあげた。
「なあ…マジで一緒に暮らさねえか?」
「……それは…無理__」
「一緒に住んでるってだけなら、周りに関係がばれたりしねえだろ」
オラクルは、視線を逸らした。
「お前には家族がいるだろう」
「家族より、お前の方が大事だ」
その言葉に、オラクルは再び相手を見た。美しい紫の瞳が、真摯な光を帯びて、こちらを見つめている。
「…私の為に家族を犠牲にするのは__」
「犠牲になんぞしねーよ。飯炊きとちびの送り迎えくらいなら、ここから通ってでも出来る」
「でも……どう説明するんだ?」
オラクルの言葉に、オラトリオは少し困惑したように眉を顰めた。やや躊躇ってから、口を開く。
「実はな、ばれちまってんだ」
ラヴェンダーがクライアントに頼まれたと言ってオラトリオに見合い話を持ってきた時、オラトリオは付き合っている人がいると言って断った。その時ラヴェンダーは、『オラクルの事か』と表情も変えずに言ったのだった。
「……そん……」
オラクルは頬が熱くなるのを覚えた。
オラトリオと恋人同士になってからも、従兄弟たちの家には何度も遊びに行っている。オラトリオとの関係は隠し、あくまで従兄弟として振る舞った積もりだった。
「だから…な。一緒に暮らそうぜ?」
躊躇いながら、小さく頷いたオラクルに、オラトリオはもう一度、唇を重ねた。

「途中で貧血起こされても困るから先に飯にすっけど」
相手を抱き起こし、オラトリオは人の悪い笑みを浮かべた。
「今夜は寝かさねーから、その積もりでいろよ?」
「………馬鹿」
幽かに赤く染まった恋人の頬に、オラトリオは軽く口づけた__続きは、後の愉しみにして。





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コメント
2111の裏キリを踏まれたあずみさんに捧げるリク小説です。
「気をもむんだけれど、ただの取り越し苦労で、結局らぶらぶな酸素」
うちだとトリオが嫉妬するパターンの方が多いので、今回はクルさんに焼きもち妬かせてみました。
結局いちゃらぶです;


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