(8)




眼が覚めた時、カカシは慣れない感触に違和感を覚えた。
すぐに、それが何なのかを思い出す。
結局あの後、ベストだけ脱いでイルカと抱き合ったまま、眠ってしまったのだ。
間近に、イルカの寝顔。
男二人で一つのベッドにいるのはやや窮屈だが、それでもとても温かい。
四代目との事は一度きりだったし、暗部ではいつ緊急召集がかかるか判らないので、オビトと共に朝を迎えられたのはほんの数えるくらいしか無い。
イルカとはただの共寝に過ぎないのだが、それでも忍犬たちと一緒に寝たときの温もりとは違う。

アンタって人は、本当にこっちの調子を狂わせてくれますよ……

眠っているイルカの鼻の傷を視線で撫でるように見つめ、カカシは心中で独り言ちた。
酒に酔った訳では無かった。飲んでも酔わないように訓練されている。
それなのに、話す積りの無かった事を話し、言う積りの無かった言葉を告げたのは多分、月が甘く美しかったから。

だが、それまでだ。

「…ん…」
イルカは寝返りを打とうとして身じろぎ、それから眼を開けた。
一瞬、何でアンタがここにいるのだと言わんばかりの顔でカカシを見、それから昨夜の事を思い出したらしく、飛び起きるようにしてベッドの上に半身を起こした。
「カ…カカシ先生。俺…結局、泊めて頂いちゃったみたいで……」
「泊まって頂いたんです」
にっこりと笑って、カカシが言う。
「今日はアカデミーはお休みでしょう?俺、飯作りますからゆっくりしていって下さい」
「…料理、作れるんですか?」
「里に戻ってから、料理の本見て覚えたんです。大したものは作れませんけど」
シャワー、浴びてきますか?その間に、朝飯の支度をしておきます__カカシの言葉に、イルカは何と答えるべきか迷った。

もう少し、カカシの側にいたい__それは本心だ。
だが、急速に近くなったカカシとの距離に戸惑っているのも確かだ。
抱いて下さい__男から、それも里の誇る天才上忍からそんな事を言われるなんて、思ってもいなかった。

「……折角の有難いお言葉なんですけど、洗濯とか掃除とか持ち帰った仕事とか、やらなきゃならない事がたまってまして……」
「そうですか」
悩んだ末のイルカの言葉に、カカシはあっさりと答えた。
「だったら、今のうちにお願いしておいた方が良いでしょうね。俺、明日から任務ですから」
「明日から…?」
「Sランク任務です。多分俺、帰って来ません」
何でも無いことのように、カカシは言った。
「俺が忍犬飼ってるって事はお話しましたっけ?全部で8匹いるんですよ。それで、俺が死んだ後、あいつらの事をお願いしようと思いまして」
「……どうして、そんな事を……」
「イルカ先生なら面倒見が良さそうだし、安心だと思ったんですよ。何も8匹全部飼えなんて言いません。引き取り手を捜してくれるだけで良いんです」
イルカはベッドの上で座りなおし、まっすぐにカカシを見た。
「何故、俺にでは無く、どうしてそんな事をおっしゃるのか訊いたんです。確かにSランク任務は危険が伴うでしょうけど、あなた程の忍であれば__」
「以前の俺ならば、ね」
言って、カカシは笑った。
「暗部にいた頃の俺ならともかく、平和ボケした里に戻って来て、ガキどものお守りでDランク任務に付き合う。まるで、ママゴトです。当然、勘は鈍り、技のキレも無くなる」
「…そう思うのなら、あなたは何故、里に戻って来たのですか?」

イルカの問いに、カカシは答えなかった。
けれども、その答えがイルカには判った。

「…死ぬ為に……死にたくて、あなたはわざわざ里に戻ったんですか?」
カカシの薄い唇に、冷たい笑いが浮かぶ。
「アンタには、関係ないでしょ?」
「あります…!せっかくあなたの事、判りかけて来たのに、どうしてまた心を閉ざしてしまうんですか?」
「……思い上がりだ」
平坦な口調で、カカシは言った。
「俺はただ、犬の引き取り先を探してくれって頼んだだけですよ?昨夜は酔ってただけだし」
「……あなたが今まで、俺に好きだと言ってたのは__」
「勿論、軽い冗句です。アンタだって、本気にしてた訳じゃ無いでしょ?」

確かに、本気だと思ってはいなかった。
おちゃらけた態度。時も場所もわきまえぬ求愛。そんなものが本気だなどと思える筈が無い。
だが__

昨夜、目の当たりにした血のような涙。
それが、偽りだとは思えない。

「どうして…何故、敢えて死のうとするんですか?」
「わざわざ負けてやる気なんか無いです。それに、身体が勝手に敵の攻撃に反応するし。暗部は飽きたから辞めただけです」
敢えて死のうとしている訳じゃない。客観的に判断して、死ぬ可能性が高いだろうと言っているだけです__他人事のように、カカシは言った。
この人はまた、無表情の仮面で感情を隠し、自分自身を傷つけようとしている__そう思うと、イルカは口惜しかった。
「あなたが…昨夜、本心を見せてくれたのは、死を覚悟していたからでしょう?」
「しつこいね、アンタも。だったら犬の世話は他の奴に頼むよ」
「俺は__あなたに、死んで欲しく無いんです」
黒曜石のような瞳でまっすぐにカカシを見つめ、イルカは言った。
「あなたという人は、勝手に人の心に入り込んできて掻き乱して、その挙句、勝手に一人で死ぬ気なんですか?」
「アンタが俺をどう思おうと知ったことか」
「そんなの、身勝手すぎる…」
「ウザイんだよ、いい加減。中忍風情が何様の積りだ?」
イルカは口を噤んだ。
そして、まっすぐにこちらを見つめたままのイルカの瞳から、一筋の泪が零れる。
濡れた黒曜石の瞳は、月の無い闇夜の星を思わせた。

…調子ガ狂ウ

イルカは唇を一文字に固く閉ざし、瞬きもせずにカカシを見つめる。

コンナ、積リハ無カッタノニ



下された命令は皆殺しだった。
暗部ではそれは別に珍しくない__そもそも、暗殺のための部隊なのだから。
殺すべき獲物が、幼い子供であることも。
『ガキどもは、お前に任せる』
隊長の言葉は、カカシには不本意だった。
『何故、俺に?そんな簡単な任務、俺である必要は無いでしょ』
部隊長の顔は面に覆われたままだった。
だが、幽かに表情が変わったのが、見えなくても判った。
『乳呑み児を平然と殺せる奴は暗部でも少ない__お前が、適任だ』

あいつには死神が取り憑いているのだと言われ始めたのは、オビトが死んでからだ。
確かに取り憑かれていたのかも知れない。
オビトを助けられなかった自分を責め、次々と危険な任務に志願した。
それでも、死ねなかった。
そして、生きているという感覚も無かった。
そうやって何年も過ごすうちに、感情が摩滅していった。
それでも時折、蘇る感情を持て余し、それを隠すようになった。
そして、冷酷な殺人鬼の烙印を押された。

それが事実だと気づいた時に、カカシは暗部を離れた__死ぬ為に。



カカシは視線を逸らし、溜息を吐いた。
「…泣かないで下さい。『中忍風情』って言葉、そんなに屈辱でしたか?」
イルカは、答えない。
カカシが改めてイルカを見ると、イルカはじっとこちらを見つめたままだ。
「俺はただ、アナタが良い人だと思ったから、犬たちの事を……」
イルカは、黙ったまま。
「……ごめんなさい……」
叱られた子供のようにうな垂れたカカシの頬に、すっとイルカの手が添えられる。
「ちゃんと、生きて帰って来てくれますか?」
「…俺は、生きている価値のない男です」

大事な人は皆、殺されてしまった。
里を守ろうとも思わない。
幼子を殺しても呵責など感じない__ただ、寒いだけ。

「…怖いのですか?」
イルカの問いに、カカシは首を横に振った。
「自害は出来なかった。でも、死ぬことなんか怖くありません」
「俺は、生きる事を恐れているのかと訊いたんです」
正面からカカシを見つめたまま、イルカは続けた。
「誰かを殺して、そして自分が生き残ることを恐れているのですか?」



『任務なんだから、割り切って当然だろ?』
そう、言った時、恋人は困ったように笑った。
『お前は、割り切れるのか?』
『アンタは、割り切れないのか?』

割り切れる位なら、死んでゆくオビトの写輪眼を抜き取ったりしなかった。
機密が敵に知られるのを防ぐ為に、死んだ忍の身体は跡形もなく処理される。
それを、割り切って受け入れる事など出来なかった。



「俺は…怖いです」
静かに微笑んで、イルカは言った。
瞬きと共に、ぽたりと泪が落ちる。
「誰かを殺して、自分が生き残ることも。誰かを喪って、自分が遺される事も。それでも__」

これが、俺の生き方です

黙ったまま、カカシはイルカの瞳を見つめ返した。
こんな穏やかな気持ちになったのは初めてだ。
「もう一度、訊きます。生きて帰って来てくれますか?」
「__アナタが……待っていてくれるなら」

甘美なる月よ
汝の光で、闇の恐怖を追い払ってくれ

イルカの腕に抱きしめられ、カカシは身体の力を抜いた。

我が苦悩は消え去り
我が瞳は涙に濡れる

「……温かい……」









五日後。
「イルカ先生、たっだいま〜♪」
受付所に、何日かぶりでおちゃらけた声が響く。
「カカシさん、よくご無事で…。でも、ご帰還は明日の予定では?」
「イルカ先生の為に頑張って早く帰って来ました。愛する人を待たせるほど罪な男じゃありませんからね、俺は」
時も場所もわきまえない上忍の台詞に、周囲の視線が集まる。
「ねえねえ、イルカせんせ。無事に帰って来たご褒美下さい」
受付所の机にでれっと両肘を付き、ぱたぱたぱたと見えない尻尾を振りながらカカシは言った。
「ご褒美って……」
「帰ってくる途中で景色の良いところがあったから、お弁当持ってデートしましょ」
「何がデートだ」
カカシの襟首掴んで凄んだのは、アスマだ。
咥えた煙草の先まで、怒りに満ちている。
「邪魔だよ、熊」
「イルカには近づくなとあれ程、言った筈だぞ」
「イルカ先生はねー、俺が無事、帰るのを待っててくれたの。出発前に約束したもんね」
へらりと笑って言ったカカシの言葉に、アスマの顔色が変わる。
「きさま、またイルカにちょっかい出しやがったのか?本気で死にてぇなら相手してやるぞ」
「それはこっちの台詞だ。俺に瞬殺されたいなら__」
「いい加減にして下さい、二人とも!」
殺気を漂わせながら睨みあっていた上忍二人は__そして固唾を呑んで見守っていた周囲の者たちも__イルカの一喝にびくりと肩を震わせた。
「アスマさん。何度も言っているように受付所は禁煙です。すぐに煙草の火を消してください。カカシさん。順番はきちんと守って下さい。それから『報告は簡潔に手短に』、です」
「「……はい……」」
「そもそもあなた方は同じ里の仲間同士なのにいがみ合ってどうするんですか?それでも里の誇る上忍ですか?ましてやあなた方は上忍師じゃないですか。そのあなた方がそんなでどうやって子供たちにチームワークを教えられますか?それにですね…」
がみがみと上忍を叱るイルカの言葉に、周囲の者たちは背筋の凍る思いがした。
そしてまるでアカデミーの生徒のようにうなだれる上忍二人の姿に、『受付の花=最強中忍』の伝説が生まれたのは、その瞬間だった。



『最強中忍』を巡る上忍二人の争いは、始まったばかりだ。






Fin.





後書き(と云う名の言い訳;)
目指せ黒イルカ&乙女カカシ…で書き始めたのですがあえなく玉砕しました;
イルカ先生、良い人だし、カカシはヘタレ過ぎ。乙女の癖して意地っ張りだし。
イルカ先生がどうして暗部にいたかまで書き込めませんでしたが、その辺は次の話で(←まだ書く気か;;)
根がパラレル好きなんで、勝手に設定捏造しまくりで愉しかったです、自分的には。
タイトルはドイツ語で『月の光』という意味で、ハイネの詩(5話に引用)からパクリました。

BISMARC



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