紅 葉 狩

(4)



一年前の冬、自来也はロケに同行して関東近郊の旅館に泊まっていた。
その朝、自来也は明け方に眼が覚めてしまい、どうにも寝付けなくなって散歩でもしようと外に出た。
そこで自来也が見たのは、冬枯れの野で舞う、イタチの姿だった。
「着物に袴ではなく普通の洋装。無論、面は付けていないし、笛や鼓の伴奏も無い。ただ扇を持っただけの出で立ちじゃったが、舞っていたのがイタチの十八番の一つである『紅葉狩』の、『中ノ舞』であるのは、すぐに判った」
『紅葉狩』とは、平家の武将、平維茂が信濃国戸隠山で鹿狩りをしていた折に、美しい上臈(じょうろう=身分の高い女性)が多くの侍女と共に紅葉狩りの酒宴を催している場所を通りかかるという筋書きだと、自来也は説明した。
維茂は酒宴の邪魔をすまいと馬を下りて静かに通り過ぎようとしたが、それに気づいた上臈から、共に紅葉を愛でようと誘われる。
断りきれずに酒宴に加わった維茂に、上臈はこの世のものとも思えぬほど美しい舞を舞って見せる。

「あれは…ワシが今まで見た中で、最も美しく、最も妖艶な舞じゃった……」
その時の事を思い出したのか、半ば恍惚とした表情で、自来也は言った。
流れるように優美なイタチの動き、冷たい北風に時折、揺れる艶やかな黒髪、能面のように無表情でありながら、能面のように無限の情感を帯びたイタチの整った横顔――
「その美しい舞いに見蕩れている内に、ワシはいつしか戸隠山に迷い込んでいた。冬枯れの野は消え、あでやかな紅葉が一面に広がった。妙なる楽の音が、はっきりと聴こえた」
鳥肌が立った……そう、自来也は続けた。
「だがそんな感覚もすぐに消え失せた。ワシはイタチの創り出した世界に引き込まれ、上臈に心を奪われる維茂に同化していた。酒と上臈の妖艶な麗しさに酔い、侍女たちのさんざめく笑い声を聞いた」

『中ノ舞』は、本来ならばそのまま『急ノ舞』へと続く。
だがイタチは、そこで舞うのを止めた。
自来也の存在に気づき、自来也に視線を向ける。
「あの時は……腰が抜けた。正直言って、暫く動けんかった」
「自来也先生が…ですか?」
そう、カカシは聞き返した。
自来也は豪放磊落で知られ、『蝦蟇仙人』の渾名を持つほどの豪傑なのだ。
滅多な事で、腰など抜かすまい。
「『紅葉狩』の上臈の正体は実は戸隠山に住む鬼神で、維茂を殺そうとして美女に化けて篭絡しようとしておったんじゃ。あの時のワシは、その鬼神と目が合ってしまった。いきなり眼の前に鬼神が顕現して眼なぞ合えば、誰だって腰ぐらい抜かす」
「……成る程……」
一つ深い溜息を吐いてから、自来也は続けた。
「あんなものを日々、間近に見せられたら、サスケが兄を意識しすぎてしまうのも無理は無い。そしてその呪縛から逃れられない限り、サスケは能楽師として自滅してしまうだけだろう」
「つまり自来也先生は、イタチがサスケにプレッシャーをかけまいとしてうちは一族から離れ、海外でしか舞台に立たずにいると、そう仰るんですか?」
「さあ、な…」
考え込むように、自来也は腕を組んだ。
「イタチがそれほどの能楽師であるなら尚更、弟の為だけに能を捨てるとは思えないんですが」
「『能が現すのは森羅万象。狭い能舞台に拘る気は無い』というのが、イタチの持論だ。能舞台を離れて映画俳優として演じている時にも、イタチは能の真髄を体現しているように、ワシには思える。イタチに取っては、それも『能』なのかも知れない。
だから流派を立てる事にも国内での公演にも、ただ単に興味が無いだけかも知れんが…」
とは言っても、と、自来也は続けた。
「やはり腑に落んのは確かじゃ。海外では公演しとるんだから、イタチも能を続けたい気持ちはあるんだろう。お前さんの言うように、弟の為だけというのは納得し難い」
「…って言うか、サスケはTV局の廊下で擦れ違ってもイタチに無視されるって怒ってましたからね。
兄として弟の事を心配する気持ちはあるんでしょうけど、サスケの為に宗家の座を捨てたとか、そういうのは無いんじゃないですか?」
「イタチがサスケを無視した…?」
聞き返した自来也に、カカシは頷いた。
「『能楽師として中途半端なのにTV俳優になんかなった俺を軽蔑してるに違いない』って、サスケは言ってましたけど。まあイタチがサスケの為に能から離れているなら、確かに怒るでしょうけどね」
「そう言えば…ロケ先で舞う姿を見られた時も、イタチはワシに挨拶もせんかったな」
珍しいですね、と、カカシは言った。
「『ワガママ女王様』とか言われる事もありますけど、イタチは基本的に礼儀正しいですからね。稽古の邪魔をされたのが不快だったのかも知れませんが、目が合ったのに何も言わなかったんですか?」
「何も言わなかったし、表情も変えなかった。ただそのまま舞を収め、付き人の鬼鮫に手を引かれて去って行った」
「手を引かれて?」
カカシの言葉に、自来也は頷いた。
「まるで本物の上臈が、侍女に傅かれるようじゃった。だからあの時ワシが見たのは、イタチではなく本物の鬼神だったような気が――」
ハッとして、自来也は途中で言葉を切った。
「そういう事か……!」

「……里よりも弟の生命の方が重いとか、弟を護る為に木の葉の里を危険に晒す様な脅しをかけたというのは、マダラの嘘かも知れない」
暫くの沈黙の後、サスケは言った。
「だけど、『サスケ』はそれを信じたかったんだ。だからマダラの言葉を、全て鵜呑みにした」
「ずっと兄の事を疎ましく思っていたのに…か?」
イタチの言葉に、何とかして兄に近づきたいと必死に努力しながら、何度も挫折と劣等感を味合わされた日々を、サスケは思い出した。
両親が亡くなった時の絶望と憤りが、一族殲滅の夜の『サスケ』の憎しみと重なる。
兄の真意を知った時の『サスケ』の激しい後悔。
どうして兄の涙を見ていながらその気持ちを汲む事が出来なかったのか、どうして事件の背景を調べようともせずに兄の言葉を鵜呑みにしたのか、どうして――
「……側に…いて欲しかった」
俯き、半ば独り言のようにサスケは言った。
「確かに周りの大人たちから兄と比較された時は劣等感を感じたし、自分が父親に認めて貰えないのは兄がいるせいだって、逆恨みしていた。だけど『サスケ』は、嫌いたくて兄を嫌ってたんじゃない。ずっと側にいて欲しかったし、兄を疎ましく思う自分に罪悪感を覚えていた」
「…それが、木の葉を潰す事にどう関係する?」
兄の言葉に、サスケは顔を上げて相手を見た。
冷静で無表情で、両親の葬儀の時の兄を思わせる。
あの時の自分の望みは、一つしか無かった。
そして、イタチはその望みを打ち砕いた。
「……『サスケ』はただ、『イタチ』に側にいて欲しかったんだ。だから一族殲滅の理由なんかどうでも良かった。ただ置いていかれた事が、悔しくて辛くて哀しかったんだ…!」
サスケの言葉に、イタチは幽かに眼を細めた。
爪が皮膚に喰い込むのも構わず、サスケは拳を強く握り締める。
「『イタチ』を憎んだのも、『イタチ』が言う通りに恨んで憎んで強くなれば、『イタチ』に認めて貰えるって思ったからだ。側にいてくれないんだったら、せめて認められたかった。
たとえそれで――兄を、殺す事になろうとも……」

「見えていない…?」
自来也の言葉に、カカシは鸚鵡返しに聞き返した。
「イタチには先天性の眼病があって、生まれつき視力が悪い。眼鏡やコンタクトでも矯正できない類のものらしい。それで確か八歳位の時に、手術を受けた筈だったが…」
「治らなかった、って事ですか」
自来也は頷いた。
「サスケやワシを無視したのではなく、見えていなかったんだと思えば納得がいく。全く見えない訳では無いから、イタチほどの才能と勘の持ち主なら、舞台では何の遜色も無く演じられるだろうが……」
弟子の指導までは、無理だろう――そう、自来也は言った。
「つまり、宗家にはなれない…?」
カカシと自来也は顔を見合わせ、それから改めて兄弟に視線を向けた。
「それがイタチが自分ではなく、サスケに宗家を継がせようとした理由だとして…イタチの眼の事、サスケは知らないんですかね?」
「うちは一族はプライドが高くて秘密主義なんじゃ。先天性の病気ともなれば、一層、知られたくはないんだろう。ワシがこの事を偶然、知った時も、外部に漏らせば出入り禁止にすると脅された」
「外部どころか、一族の中でも秘密なんですね…」
兄の眼の事を知っていれば、サスケが『無視された』と憤る筈が無い。
自来也の言う通りならば、イタチが弟にまで眼の事を隠しているのは、やはりサスケにプレッシャーを与えない為なのだろうと、カカシは思った。 

「では、木の葉への復讐は何の為だ?」
「…『サスケ』が『イタチ』に置き去りにされる羽目になったのは、『イタチ』が木の葉を守ろうとしたせいだ。『イタチ』は弟と共にあり続けることより、里を守る方を選んだ。
だから上層部じゃない。里そのものが、『サスケ』から最愛の兄を奪ったんだ」
両親の葬儀の時の兄の言葉が、サスケの脳裏に蘇る。
能を続けたいか?
うちは一族を、守りたいか?
その両方の問いに首を縦に振ったのは、そうすれば兄と一緒にいられると思ったからだ。
両親を一度に亡くし、もうこれ以上、大切な人を失いたく無かった。
本当は、能もうちは一族もどうでも良かった。
自分には兄のような才能は無い。
だから兄と一緒にいられさえすれば、他はどうでも良かったのだ。
けれども兄は、自分を置き去りにして行ってしまった。
『うちは一族は、お前が継げ』、という言葉だけ残して。

「……木の葉を潰せば、確かにそれは兄の意志を無視する事になる。だけどそれでも『サスケ』は、自分が兄に愛されていると信じたいんだ。里よりも何よりも大切に想っていてくれるんだと、そう、信じたいんだ」
「敢えて木の葉を潰す事で、兄の気持ちを試したいのか?」
「試すとか試さないとか、そんな余裕は『サスケ』には無い。『サスケ』はただ、兄と一緒にいたいだけだ。子供の頃の幸せな思い出のある家に、『イタチ』を連れて帰りたいだけなんだ。その為にはうちは一族を差別する上層部も、『イタチ』を抜け忍として追い立てる木の葉の忍も、全て滅ぼさなければならない」

『サスケ』が兄に復讐を誓ったように、サスケも兄を見返そうと必死で努力した。
兄が見棄てたうちは一族を、自分が守らなければならないのだと、自らに言い聞かせた。
けれどもうちは一族の内紛と凋落は自分にはどうしようもなく、能など辞めてしまいたいと何度、思ったか知れない。
それでもイタチが海外で能の公演を行うと知って、居ても立ってもいられなくなった。
自分の未熟さ、イタチを失ったうちは一族の凋落振りを嘲笑われているように感じ憤りながらも、どうしても兄の舞台を見たかった。
傲慢な挑発行為だと憤る分家の者たちに隠れて、密かにヨーロッパに飛んだ。
そして満場の観客が総立ちで拍手喝采する中、サスケは座席に蹲っていた。
涙が、止まらなかったのだ。
誰よりも凛々しく美しく気高く、幼い自分が憧れてやまなかった兄の姿が、そこにはあった。
自分の、手の届かないところに。

「…何故、『サスケ』がそこまで兄を慕い、愛されたいと望んでいるのだと、お前は思うんだ?」
イタチの言葉に、サスケはキッとなって相手を見た。
「あんたみたいな冷酷で意地悪なクソ兄貴だって側にいて欲しいのに、『イタチ』みたいに優しい兄さんを愛さない弟がいるわけ無ぇだろうが!」
頭に一気に血が昇る。が、サスケはそれを自覚していなかった。
「俺だってあんたに認められたいから碌に寝ないで必死に稽古してるんだ。うちはだの宗家だの、そんなのどうだって良い。うちは一族のせいであんたが国内で舞台に立てないなら、うちはなんて滅べば良いんだ…!もう一度、あんたと同じ舞台に立てたら、それが無理でもあんたを近くで見ていられたら、あんたと一緒にいられたら、他の全てがどうなったって、俺は構わない……!」

言い切ってしまってから、サスケは自分が何を言ったのか、そしてここがどこなのか思い出した。
激しい羞恥心に頬に血が昇り、耳まで赤くなっているのが自分でも判る。
感情的になって場所柄も弁えず喚き散らした自分を、冷静な兄は軽蔑するに違いない。
それに十六にもなって兄に側にいて欲しいだなんて、子供だとバカにされるだろう。

「……そう、怒鳴るな」
思わずぎゅっと眼を閉じ俯いたサスケに、イタチは言った。
その穏やかな口調に誘われるようにサスケは眼を開け、相手を見る。
「咽喉を痛めるぞ?」
宥めるように言って、イタチは柔らかく微笑んだ。
うちは一族との確執でイタチが能舞台に上がる事を禁じられてから、もう何年も演技以外では見ていなかった、天女のような微笑だ。
身体から力が抜けて立っていられず、サスケはベッドの傍らに座り込んだ。
「…お前に辛い想いをさせてしまうのは判っていたが、お前が自ら呪縛を破るのを、俺は待つしか無かった」
静かに、イタチは言った。
「…何…の話……」
「お前がそれを望むのならば、もう一度、お前と共に舞台に立とう」
ぴくりと、サスケの肩が震える。
「本当…に……?」
「ああ…。だから――」
言って、イタチはサスケの頬に軽く触れた。
「こんな所で泣くな……」
イタチはもう一度、夢見るように微笑むと、サスケの癖毛を軽く撫でた。
それから流れるような優雅な所作でベッドから降り、カカシの方を見る。
「編集して繋げば、撮り直しの必要は無いでしょう」
質問というより断言する口調で言うと、イタチは踵を返した。
細身で姿勢のよい優美な立ち姿を見送っていると、付き人の鬼鮫がすっと現われ、イタチに影のように付き従う。

「……で、サスケは兄の存在から受ける呪縛から、逃れられたんですかね」
「さあのう…」
カカシの問いに、自来也は言った。
「ただ少なくとも、『サスケ』の心情が理解できなくて悩む事は、もう無さそうじゃの…」
サスケのマネージャーのカブトがサスケに歩み寄り、まだ肩を震わせているサスケを楽屋に連れて行く。
その途端、『ベストショットを撮り損ねた!』だの、『イタチ様の微笑が見られたなんて、もういつ死んでも良い…』だの、『サスケ君の泣き顔、最高に可愛い〜♪』だののざわめきが、スタッフの間から沸き起こった。

イタチとサスケの兄弟がこれからどうして行くのか、能楽うちは流がどうなるのか、自分には判らないとカカシは思った。
ただ一つだけ確実なのは、この『うずまきナルト物語』の撮影現場が、脇役の一人に過ぎないイタチに、完全に仕切られている、という事だ。
――やっぱりオレ、このシリーズ降りたい……
再び胃の辺りが痛みだすのを感じながら、カカシは深い溜息を吐いた。







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