![]() 「コード」 アトランダム研究所本部の庭木の枝で羽繕いをしていたコードは、呼びかけられて下を見た。カルマだった。 「オラトリオを見ませんでしたか?」 「嫌。何かあったのか?」 打ち合わせに来るはずのオラトリオが姿を見せないのだと、カルマは言った。連絡も無く、予定から30分過ぎている。 「<ORACLE>は捜したのか?」 「オラクルに問い合わせたら、来ていないと言っていました。本体のある部屋は、点検中とかで立ち入り禁止になっていまして」 コードは、厭な予感を覚えた。 「一緒に来い」 言って、メタルバードは飛び立った。 「それは<ORACLE>が管理している情報だよ」 そう、正信は言った。<ORACLE>へのロボットプログラムの潜入記録を調べろというコードの言葉に対する返事だった。 「そんな事は判っている」 「まるで、<ORACLE>をハックしろと言っているようなものだぞ」 「ひよっ子を引きずり出すには、それが一番てっとり早い」 コードの言葉に、正信とカルマは驚いてコードを見た。 「確かにオラトリオは駆けつけるでしょうけど、そんな真似をする必要は__」 「必要があるから言ってるんだ」 正信とカルマは、顔を見合わせた。 「一体、何があったんだい?」 正信の言葉に、コードは軽く溜息を吐いた。 部屋は、穏やかな灯かりに照らされていた。オラトリオはベッドに横たわり、じっと天井を見つめた。彼の全身に絡み付いているケーブルが、その動きを封じていた。 静かに、ドアが開いた。 「…オラクル」 オラクルはオラトリオを見下ろし、婉然と微笑んだ。 「お前は自分の身が危険に晒されているのを判っていない」 「判っているよ、私は」 言って、オラクルはオラトリオの前髪を、優しくかき上げた。 「ウイルスのせいで、お前は冷静な判断が出来なくなっている。このままじゃ危険だ」 「危険なんか、何もないよ。だって…お前が護ってくれるんだろう?」 「オラクル、聞いてくれ。お前は__」 オラトリオは、途中で言葉を切った。何かに怯えるように、オラクルはじっと宙の一点を凝視している。 「どうした、オラクル」 「…何でもないよ。ただちょっと…」 暫く、オラクルは口を噤んでいた。が、やがて安堵したように溜息を吐き、オラトリオの側から離れようとした。 「オラクル、話を聞いてくれ。このままにしておいたら__」 「話なら後で聞くよ」 オラトリオの言葉を遮って、オラクルは言った。そして、オラトリオに軽く口づけた。 「オラトリオがダイブしたのが昨日の13:51。今日の08:58には戻った事になっている」 「改竄の形跡は?」 「改竄したのがオラクルなら、形跡なんてある筈も無いよ」 電話を切ったカルマが、正信たちに向き直った。 「<ORACLE>管理機構に問い合わせましたが、<ORACLE>本体のある部屋は、空調設備の点検の為、立ち入り禁止にしているそうです」 「…というデータをオラクルが作って流したとすれば、人間はそれを信じるだけだよ」 言って、正信は眼鏡の位置を直した。 「やはり強硬手段を取る必要がありそうだ」 そう、コードは言った。 リンクを通じた呼びかけで、オラトリオはオラクルの説得を試みていた。オラクルからは何の反応も無かったが、オラトリオは忍耐強く、呼びかけを続けた。 不意に、彼を捉えているケーブルが緩んだ。瞬く間に、それは消え去った。プライヴェートルームを出たオラトリオは、ホールで蹲っているオラクルの姿を見た。 「オラクル…!」 オラトリオは、オラクルに駆け寄った。レッドアラート。侵入者だ。 「すぐに片づけて来るぜ」 言って、出て行こうとしたオラトリオを、オラクルは引き留めた。 「行かないでくれ」 「オラクル?」 「私は…お前を危険に晒したく無いんだ。だから…」 「馬鹿な事を。俺が行かなかったら、誰がお前を護るんだ?」 オラクルを抱きしめ、出来るだけ優しく、オラトリオは言った。オラクルの頬は酷く蒼ざめ、恐怖に怯える瞳は潤んでいた。細い指が、オラトリオのコートを、きつく掴んでいる。 「俺は侵入者にやられたりなんざぞ、しねえぜ。何も心配する事なんぞ無い」 「それでも…私は…」 「すぐに戻る。俺を信じてくれ」 そっと、オラトリオはオラクルの手を振り解いた。 「師匠」 <ORACLE>の外に出たオラトリオは、思いがけない相手の姿に驚いて言った。 「矢張り捕らえられていたか__カルマ、聞こえるか?」 『はい。オラトリオは無事だったようですね』 「ああ。これから引き上げる」 ウイルスどもが消失していくのを、オラトリオは見た。 「この侵入者は…」 「正信だ。事情は話した」 身体の力が抜けていくように、オラトリオは感じた。 「済みません、師匠…」 オラトリオは、出てきたばかりの<ORACLE>を振り返った。すぐに戻る__その約束は、破らなければならない。 ――私の想いを殺すような事はしないでくれ オラクルの言葉が脳裏に蘇る。胸が甘く、痛い。 「何をしている。行くぞ」 コードの言葉に、オラトリオは頷いた。 破壊された感情制御モジュールを中心として、関連のある幾つかのモジュールをバックアップからリストアし、整合性を取る為に記憶データを操作した。丸3日を要する作業だった。 「お帰り、オラトリオ」 いつもの様に、オラクルは言った。 「ああ、ただいま__調子はどうだ?」 「良いよ、勿論」 定期的な点検と、調整__オラクルが認識しているのはそれだけだった。 「今日は手伝いに来てくれたんだろう?調整に手間取ったから、仕事がたまってしまった」 「__ああ…」 調整に漕ぎ着けるまでの1週間の出来事を、オラトリオは思い出していた。 <ORACLE>管理機構に状況を報告し、コードインスペクションの結果を提出した。無論、報告したのはオラクルの感情が異常に不安定になったという事だけだ。影響個所が再点検され、調整の方向性が決定されるまで、全部で1週間、かかったのだ。 その間ずっと、オラトリオとオラクルは、リンクを通じて話し合っていた。オラトリオは調整の必要性を忍耐強く説明し、オラクルはオラトリオの不実を詰り、嘆いた。 ――お前は私を愛してなんか、いない そう言わしめているのがウイルスだと判っていても、聞くのは辛かった。 「どうかしたのか?」 「__嫌。何でもねえぜ」 何とか笑顔を見せて言うと、オラクルも微笑った。 もしも__そう、オラトリオは思った。もしもオラクルの思考が調整されず、感情が制御されていなかったら、二人の関係は、今と違うものになっていたのだろうか…? それは、判らない。仮定の話でしか無い。僅かな間の"夢"など、忘れてしまうべきだ。もし、それが出来るなら。 いずれにしろ、一つだけはっきりしている。 オラクルの中で何より強い感情は侵入者に対する恐怖だという事だ。それはシステムを維持する上で必要な要素で、オラトリオへの想いを凌駕する__ オラトリオのオラクルへの想いには、制限など課せられない。オラトリオがオラクルを想えば想う程、<ORACLE>というシステムの安定に寄与する事になるのだから。 そして、逆は成り立たない。 「オラトリオ…?」 気遣わしげに、オラクルは言った。 「大丈夫なのか?何だか辛そうだけど」 「…大丈夫だ。それより、とっとと仕事、終らせちまおうぜ」 笑って、オラトリオは言った。そして、頷いて微笑んだオラクルを見た時、胸の奥に痛みを覚えた。
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